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まじなひの一方面
まじないのいちほうめん |
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作品ID | 46330 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 3」 中央公論社 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「土俗と伝説 第一巻第一号」1918(大正7)年8月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-05-01 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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まじなひ殊に、民間療法と言はれてゐるものゝ中には、一種讐討ち療法とでも、命くべきものがある様である。蝮に咬まれた時は、即座に、其蝮を引き裂いて、なすりつけて置きさへすればよいとか、蜂をむしつて、螫された処に擦り込んで置かなくてはならぬ、など言ふのが、其である。
幼い心を持つてゐた昔の人にとつては、人を悩し苦める毒を、身内に蓄へてゐる毒虫などが、どうして、自身其毒にあたらぬだらうと言ふことは、可なりむづかしい疑問であつたに違ひない。其にはきつと、其毒を消すに足るだけの要素を同時に、一つからだに具へてゐるに違ひない、と解釈するより外に、為方はなかつた事と思ふ。
ばちぇら氏の下女であつたあいぬが、主人が畑から南瓜の双子をとつて来て、食べようとしてゐるのを止めて、「さういふ畸形のなり物を食べるには必、片方食べてはならぬと言ひます。両方とも喰べてしまはねば、祟りを受けます。前半の祟りは、後半が祓ふことになつて居るのですから」と言うた(あいぬ人及其説話)話は、やはり、蝮や蜂の場合と、同じ考へを語つてゐるのであつた。「毒喰はゞ皿まで」など言ふ、粗大な諺の源も、或はこんな処に、存外なひつ懸りを持つてゐるのかも知れぬ。一方、われとわが身内の毒の鬱積に苦しんで、毒蛇などが、人の救ひを受けたと言ふ形の話も、ちよい/\見える。かういふまじなひの出来た、一面の理由を語るものである。
今日まじなひと言ふ語に、おしなべて括んで居る事がらも、実は、其分類に不適当なものを雑へてゐる。一体此語は、不合理と言はぬ迄も、われ/\の思惟を超越した結果を、必然的に喚び起す意味であるから、正当な除去の方法とは、人皆考へてゐぬのである。喰ひ合せをこはがるのと似た、先人の経験に対する、漠然とした信用と見てよからう。而も、祈祷や医薬の中に籠るべきものまで雑つてゐるのが、後世のまじなひで、語原の意識がまだ失はれずして、内容は既に、多分の変移を来して居るのである。
まじは、精霊の不純な活動を言ふ語で、能動者を人と限らず、精霊自身なることもあるのが、霊の純・不純の作用に恐れもし、讃美もした大昔の時分のまじなる語の用語例である。母の乳汁や貝殻がやけどを癒したのは、まじなひに籠りさうだが、実は、正当な薬物療法で、酒を其最いやちこな効果を持つもの、と考へてゐた、くする(くす――くし)と言ふ行ひであつたと思ふ。
くするは霊の純用で、まじなふの古い形まじこるは、其不純な活用である。
まじなふは、近代風の語に飜すと、悪魔の氏子となることである。まじものを外に使ふ者があつて、自分が悪い結果を受けた時即、まじこると言ふのである。
まじこりを呪咀の結果と見るのはわるい。他に関する悪意と言ふよりも、利己的な動機の為に、人を顧る暇のなかつた場合を斥すのである。とこふは社もあり、人も崇める神の現れであることもあるが、まじこりは多く雑神・埋…