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歌の円寂する時
うたのえんじゃくするとき
作品ID46382
著者折口 信夫
文字遣い新字新仮名
底本 「昭和文学全集第4巻」 小学館
1989(平成元)年4月1日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2007-04-18 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

われさへや 竟に来ざらむ。とし月のいやさかりゆく おくつきどころ
ことしは寂しい春であった。目のせいか、桜の花が殊に潤んで見えた。ひき続いては出遅れた若葉が長い事かじけ色をしていた。畏友島木赤彦を、湖に臨む山墓に葬ったのは、そうした木々に掩われた山際の空の、あかるく澄んだ日である。私は、それから「下の諏訪」へ下る途すがら、ふさぎの虫のかかって来るのを、却けかねて居た。一段落だ。はなやかであった万葉復興の時勢が、ここに来て向きを換えるのではないか。赤彦の死は、次の気運の促しになるのではあるまいか。いや寧、それの暗示の、寂かな姿を示したものと見るべきなのだろう。
私は歩きながら、瞬間歌の行きついた涅槃那の姿を見た。永い未来を、遥かに予ねて言おうとするのは、知れきった必滅を説く事である。唯近い将来に、歌がどうなって行こうとして居るか、其が言うて見たい。まず歌壇の人たちの中で、憚りなく言うてよいことは、歌はこの上伸びようがないと言うことである。更に、も少し臆面ない私見を申し上げれば、歌は既に滅びかけて居ると言う事である。

   批評のない歌壇

歌を望みない方へ誘う力は、私だけの考えでも、尠くとも三つはある。一つは、歌の享けた命数に限りがあること。二つには、歌よみ――私自身も恥しながら其一人であり、こうした考えを有力に導いた反省の対象でもある――が、人間の出来て居な過ぎる点。三つには、真の意味の批評の一向出て来ないことである。まず三番目の理由から、話の小口をほぐしてゆく。
歌壇に唯今、専ら行われて居る、あの分解的な微に入り、細に入り、作者の内的な動揺を洞察――時としては邪推さえしてまで、丁寧心切を極めて居る批評は、批評と認めないのかといきまく人があろう。私は誠意から申しあげる。「そうです。そんな批評はおよしなさい。宗匠の添刪の態度から幾らも進まないそんな処に[#挿絵]徊して、寂しいではありませんか。勿論私も、さびしくて為方がないのです。」居たけ高なと思われれば恥しいが、此だけは私に言う権利がある。実はああした最初の流行の俑を作ったのは、私自身であったのである、と言う自覚がどうしても、今一度正しい批評を発生させねば申し訣のない気にならせるのである。海上胤平翁のした論難の態度が、はじめて「アララギ」に、私の書いた物を載せて貰う様になった時分の、いきんだ、思いあがった心持ちの上に、極めて適当に現れて居たことを、今になって反省する。歌は感傷家程度で挫折したが、批評の方ではさすがと思わせた故中山雅吉君が、当時唯一人、私の態度の誤りを指摘して居る。なんの、そんな事言うのが、既に概念論だ。これほど、実証的なやり口があるものか、と其頃もっとわからずやであった私は、かまわず、そうした啓蒙批評をいい気になって続けて居た。今世間に行われて居る批評の径路を考えて見ると、申し訣ないが、私の…

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