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詩語としての日本語
しごとしてのにほんご |
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作品ID | 46383 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「昭和文学全集 第4巻」 小学館 1989(平成元)年4月1日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-04-18 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 27 ページ(500字/頁で計算) |
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銘酊船
さてわれらこの日より星を注ぎて乳汁色の
海原の詩に浴しつゝ緑なす瑠璃を啖ひ行けば
こゝ吃水線は恍惚として蒼ぐもり
折から水死人のたゞ一人想ひに沈み降り行く
見よその蒼色忽然として色を染め
金紅色の日の下にわれを忘れし揺蕩は
酒精よりもなほ強く汝が立琴も歌ひえぬ
愛執の苦き赤痣を醸すなり
アルチュル・ランボオ
小林秀雄
この援用文は、幸福な美しい引例として、短い私の論文の最初にかかげるのである。この幸福な引証すら、不幸な一面を以て触れて来るということは、自余の数千百篇の泰西詩が、われわれにこういう風にしか受け取られていないのだということを示す、最もふさわしい証拠になってくれている。象徴派の詩篇の、国語に訳出せられたものは、実に夥しい数である。だが凡、こんな風にわれわれの理会力を逆立て、穿り考えて見ても結局、到底わからない、と溜息を吐かせるに過ぎない。こう言う経験を正直に告白したい人は、ずいぶん多いのではないかと思うのである。
小林秀雄さんの[#「小林秀雄さんの」は底本では「 小林秀雄さんの」]翻訳技術がこれ程発揮せられていながら、それでいて、原詩の、幻想と現実とが並行し、語の翳と暈との相かさなり靡きあう趣きが、言下に心深く沁み入って行くと言うわけにはいかない。此は唯この詩の場合に限ったことではなく、凡象徴派の詩である以上は、誰の作品、誰の訳詩を見ても、もっと難解であり、晦渋であるのが、普通なのである。そう言うことのあった度に、早合点で謙遜なわれわれは、理会に煉熟していない自分を恥じて来たものだ。併し其は、私たちの罪でもなく、又多くの場合、訳述者の咎でもないことが、段々わかって来た。それは国語と国語とが違い、又国語と国語とにしみこんでいる表現の習慣の違いから来ている。日本の国語に翻し後づけて行った詩のことばことばが、らんぼおやぼおどれいるや、そう言った人の育って来、又人々の特殊化して行ったそれぞれの国語の陰影を吸収して行かないのである。
われわれの友人の多くは、外国の象徴詩を国語に翻訳したその瞬間、自分たちの予期せなかった訳文の、目の前に展っているのを見て、驚いたことであろう。その人が原作に忠実な詩人であればある程、訳詩がちっとも、もとの姿をうつしていないことに悲観したことが察せられる。それほど日本語は、象徴詩人の欲するような隈々を持っていないのである。単に象徴性能のある言語や詞章を求めれば、日本古代の豊富な律文集のうちから探り出すことはそう困難なことではない。だが、所謂象徴詩人の象徴詩に現れた言語の、厳格な意味における象徴性と言うものは、実際蒲原有明さんの象徴詩の試作の示されるまでは、夢想もしなかったことだった。私はまだ覚えている。そうした、氏の何番目かの作物に、「朝なり、やがて濁り川……」(後、「朝なり、やがて川筋は……」と言う風に改ったと覚え…