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「歌念仏」を読みて
「うたねんぶつ」をよみて |
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作品ID | 46581 |
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著者 | 北村 透谷 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房 1969(昭和44)年6月5日 |
初出 | 「女學雜誌 三二一號」女學雜誌社、1892(明治25)年6月18日 |
入力者 | kamille |
校正者 | 鈴木厚司 |
公開 / 更新 | 2008-02-13 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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巣林子の世話戯曲十中の八九は主人公を遊廓内に取れり、其清潔なる境地より取り来りたる者は甚だ少数なる中に「お夏清十郎歌念仏」は傑作として知られたり。余は「歌念仏」を愛読するの余、其女主人公に就きて感じたるところを有の儘に筆にせんとするのみ。若し巣林子著作の細評を聴かんとする者あらば、逍遙先生又は篁村翁が許へ行かるべし、余豈巣林子を評すと言はんや。
中の巻の発端に「かゝる親には似ぬ娘、お夏は深き濡ゆゑに、菩提心と意地ばりて、嫁入も背ものび/\の」………と書出して、お夏に既に恋ある事を示せり、然れども背ものび/\といふところにて、親々の眼には極めて処女らしく見ゆる事を知らせたり。清十郎(即ちお夏の情人)が大坂より戻り来りたる事を次に出して、「目と目を合はする二人が中、無事な顔見て嬉いと、心に心を言はせたり」と有処にて、更に両人の情愛の秘密を示せり。
然に清十郎が沓脱に腰をかけて奥の方の嫁入支度を見て、平気にて「ハアヽ余所には嫁入が有さうな云々」と言ひしときにお夏が「又ねすり言ばつかり、おんなじ口で可愛やと云ふ事がならぬか、意地のわるい」と言ふ言葉を聞けば、お夏は既に処女にあらずして莫連者か蓮葉者のいたづらあがりの語気を吐けり。読んでお夏が「我も室で育ちし故、母方が悪いの、傾城の風があるのとて、何処の嫁にも嫌はるゝ、これぞ宜い事幸ひと、猶女郎の風を似せ」と云ひ出るに至りては、お夏が無邪気なる意気地と怜悧なる恋の智慧を見るに足るべし、「あの立野の阿呆顔、敷銀に目がくれて、嫁に取うといやらしい」と云一段に至りては、彼の恋愛の一徹にして処女らしきところを蔽ふ能ず。
二人の情通露見したる時に、朋輩勘十郎の奸策同時に落ち来りて、清十郎が布子一枚にて追払はるゝ段より、お夏の愛情は一種の神韻を帯び来れり。清十郎の胸の中には恋の因果といふ猛火燃しきりて、主従の縁きるゝ神の咎めを浩歎して、七苦八苦の地獄に顛堕したるを、お夏の方にては唯だ熾熱せる愛情と堪ゆべからざる同情あるのみ。ひそかに部屋の戸を開きて外に出れば悽惻として情人未だ去らず、泣いて遠国に連よとくどく時に、清十郎は親方の情にしがらまれて得応へず、然るを女の狂愛の甚しきに惹かされて、遂に其誘惑に従はんと決心するまでに至りし頃、中より人の騒ぎ出たるに驚かされて止ぬ。美術の上にて言ふ時は、お夏のこの時の底から根からの恋慾は、巧に穿ち得たるところなるべし。
清十郎の追払れたりし時には未だ分別の閭には迷はざりしものを、このお夏の狂愛に魅せられし後の彼は、早や気は転乱し、仕損ふたら浮世は闇、跡先見えぬ出来心にて、勘十郎と思ひ誤りて他の朋輩なる源十郎を刺殺したるも、恋故の闇に迷へばこそ。清十郎既に人を殺して勘十郎の見出すところとなり、家の内外に大騒擾となりたる時にお夏は狂乱したり、其狂乱は次の如き霊妙の筆に描出せらる。
「あれお…