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唇草
くちびるそう
作品ID46929
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年6月24日第1刷
初出「週刊朝日」1937(昭和12)年8月2日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-02-19 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今年の夏の草花にカルセオラリヤが流行りそうだ。だいぶ諸方に見え出している。この間花屋で買うとき、試しに和名を訊ねて見たら、
「わたしどもでは唇草といってますね、どうせ出鱈目でしょうが、花の形がよく似てるものですから」
 と、店の若者はいった。
 青い茎の尖に巾着のように膨らんで、深紅の色の花が括りついている。花は、花屋の若者にそういわれてから、全く人間の唇に見えた。人間の唇が吸うべきものを探し当てず、徒らに空に憧れている。情熱だけが濡れた唇に遺って風が吹いて、苞の花がふらふら揺れるときには一層悩ましそうに見える。そしてこの花はこういってるようである。
「私の憧れを癒やすほどのものは現実にはない」
 これは私の従弟の千代重が外遊するまで、始終口癖にいっていた言葉と同じである。ふとこの言葉を千代重が囁いたと思うほど、花は従弟の唇を思い出させた。ふっくりしていて、幼くてしかも濡れ色に燃えている。それはやや頬の高い彼の青白い顔に配合して、病的に美しかった。彼の歯は結核性に皓く、硬いものをばりばり噛むのを好いた。

 千代重がまだ日本にいたある年の初夏のころである。この従弟は私の稽古先のハープの師匠の家へ私を訪ねて来て、そこから連れ立って、山の手の葉桜がまばらに混る金目黐垣が、小さい白い花を新芽の間につけている横町を歩きながら、いった。
「僕寄宿舎を出て、ある先輩の家へ引越すから、伯父さんにはうまくいっといて下さい」
 私は従弟の今までの妙な恋愛事件の二三を知ってるものだから、どうやらまたおかしいと疑って訊ねた。
「どんな家なの。どういうわけよ」
 すると、従弟は唇をちょっと尖らして、口角を狐のように釣り上げ、モナリザの笑を見せていった。嬢
「可哀そうなんだよ。その家の主婦が、お嬢さん[#「お嬢さん」は底本では「お譲さん」]育ちの癖に貧乏して仕舞って、こどもを一人抱えてるんだ。うっちゃっときゃ、まあ母子心中か餓死なんです」
「ご主人は」
「主人は、僕の農芸大学の先輩に当る園芸家なんですが、天才肌でまるで家庭の面倒なんか見ないんです。酒とカーネーションの改良に浸り切っています」
「およしなさい。あなたには重荷の騎士気質なぞ出してさ。そんな家庭へ入り込んで、面倒なことにでもなるといけませんよ」
 すると従弟は不服そうな顔をして、その時は別れたが、結局、一週間も経たないうちに、その家へ入り込んでいた。知らせの手紙には、こう書いてあった。
「やっぱり来て仕舞いましたよ。だってあんまり見るに見兼ねるんだもの。伯父さんには自然と知れるまで黙ってて下さい。この位のことはしてくれてもいいですよ。あなたがいくら嘘嫌いな聖女でも若いもののロマン性はお互いに庇い合いましょう」
 私はこの時もあまり同感出来なかったが、彼の保証人になっている私の父に告げることは、控えといてやった。

 千代…

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