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春
はる |
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作品ID | 46936 |
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副題 | ――二つの連作―― ――ふたつのれんさく―― |
著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「岡本かの子全集3」 ちくま文庫、筑摩書房 1993(平成5)年6月24日第1刷 |
初出 | 「文学界」1936(昭和11)年12月号 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 岩澤秀紀 |
公開 / 更新 | 2012-10-20 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 49 ページ(500字/頁で計算) |
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(一) 狂女の恋文
一
加奈子は気違いの京子に、一日に一度は散歩させなければならなかった。でも、京子は危くて独りで表へ出せない。京子は狂暴性や危険症の狂患者ではないけれど、京子の超現実的動作が全ての現代文化の歩調とは合わなかった。たまたま表の往来へ出ても、電車、自動車、自転車、現代人の歩行のスピードと京子の動作は、いつも錯誤し、傍の見る目をはらはらさせる。加奈子は久しい前から、自分がついて行くにしても京子の散歩区域は裏通りの屋敷町を安全地帯だと定めてしまっていた。去年の秋、田舎から出て来た女中のお民は年も五十近くで、母性的な性質が京子の面倒をよく見て呉れた。加奈子は近頃京子の毎日の散歩にお民をつけて出すことにした。
裏の勝手口から左へ黒板塀ばかりで挟まれた淋しい小路を一丁程行くと、丁度その屋敷町の真中辺に出る。二間幅の静かな通りで、銀行や会社の重役連の邸宅が、青葉に花の交った広い前庭や、洋風の表門を並べている。時折それらの邸宅の自家用自動車が、静かに出入りするばかりで、殆ど都会の中とも思われぬ程森閑としている。京子は馴れた其処を、自分の家の庭続きのように得意にお民を連れて歩いて居たが、ここ一週間ばかり前あたりから、何故かお民の同行をうるさがった。だが、お民の母性的注意深さも、それには敗けて居ず、今日も京子の後からついて来た。京子はそれに反撥する弾条仕掛けのような棘げ棘げしい早足で歩きながらお民を振り返った。
――まだ踵いて来るの。私、直ぐ帰るから、先へお帰りよ。
――はい。
お民は此の上逆おうとはしないで、少し引き返したところの狭い横丁へ、いつものように隠れ込んだ。これはお民が京子に散歩の途中から追い払われ始めてから二三度やった術である。こんな他愛もない術を正気の者なら直き感づくであろうに、と其処の杉の生垣の葉を片手の親指と人差指とでお民は暫くしゃりしゃり揉んで居た。すると、あの気の好い中年美人の狂気者が、頻りにお民にいとしく可哀相に想われるのだった。昔、評判の美人であり、狂人になっても、こどものうちからの友達の奥様に引きとられるまで、さぞいろいろの事情もあったろうに、何という子供まる出しな性分だろう。あれがあの人の昔からの性分なのか、それとも狂人というものが凡そああいう気持のものなのか。お民は、国で養女の年端もゆかない悪智慧に悩まされた事を想い出した。やっぱり奥様のお友達だけあって生れが好いからなのかしら、それであんなに自分の養女などとは性分が違うのかしらん、などと考えた。そのうちにもお民は京子が気になり出して、そっと横丁の古い石垣から半顔出して京子の動静を窺った。
京子は前こごみにせっせと行く。冬でも涼しい緑色の絹絞りが好きで、奥様も、よく次から次へと作って上げる。だがその上から引掛けに黒地に赤しぼりの錦紗羽織の肩がずっこけて居る。縫い直し…