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相聞の発達
そうもんのはったつ |
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作品ID | 46954 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 1」 中央公論社 1995(平成7)年2月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2007-10-19 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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一
木梨軽ノ太子の古い情史風のばらっどの外に、新しい時代に宣伝せられたと思はれる悲しい恋語りが、やはり巡遊伶人の口から世間へちらばり、其が輯録せられて万葉にある。一つは宅守相聞である。今一つは乙麻呂流離の連作である。時代が新しいから真の創作であらう。そして不遇な男女が、哀別の涙をさへ、人に憚つて叫び上げたものゝ様に思はれ、我々をも動す強い感激が含まれて居る様にも見える。唯見えるのである。
今日の我々は、背景を知らずに見るから、ばらっどとしての誇張と、純粋な劇的の構想にうつかりひつかゝつて了ふのである。時代が創作時代・抒情詩時代に入つてゐるのだから、都近くから出たばらっどが、如何にも修練と昂奮とで、技巧を突破した作物らしい色を見せる様になつてゐる。殊に中臣宅守に係つた巻第十五の主要部になつた連作の唱和などは、かう言ふ自身すら、疑はしく思ふ程の傑作揃ひである。併し、どうして其等の相聞歌が散逸せなかつたか、即興以外には纔かに宴遊の余興に於て、だが、はつ/\好事の漢風移植者たる大伴ノ旅人・家持一味の人々の文芸意識を持つての遊戯が見える位に過ぎない時代に、悲しみを叙して、繰りかへし贈答することがあつたとは思はれぬ。
畢竟、軽ノ太子の哀れな物語や、大国主の円満な恋や、仁徳天皇のねぢれた情史を謡ひ歩いて、万葉まで其形を残した性欲生活の驚異を欲した村の人々の心が、更に変態で、切実なものを要求した為に、ほかひゞとの謡ふ「物語」のくづれが、自然に変化して、創作気分の満ちたものを生み出すことになつたのである。だが、其変化は自然であつたらうと言ふことは忘れてはならぬ。特殊な事情は、固有名詞やほんの僅かばかり文句を変更する位のことであつたであらう。ほかひゞと自身すら古物語の改作とは心づかずに事情のあうて行くまゝに、段々謡ひ矯め、口拍子に乗せ易へて行つたに違ひない。
石上乙麻呂は、奈良の盛りの天平十一年の春、久米ノ若売と狎れて、女は下総に配せられると同時に、土佐の国に流された。若売は恐らく貢女として、地方出の采女と異名同実の役をして居たものと思はれる。采女の制度のまだ厳重な時代であつたから、故左大臣の子として、役こそはまだ低かつたが、人の思はくの重々しい位置にあつたに拘らず、政綱粛正の為か、藤原氏の一流人物の急死から、他氏を恐れた政略かの犠牲として、辺土に遣られたものと思はれる。とにかく世人の目を[#挿絵]つたことは察せられる。
併し又一方、若売は藤原宇合の妻で、百川の生母である。夫が時疫で亡くなつた時は、当時六歳の百川が居た。此事件が持ちあがつたのは、翌々年に秘事が顕れたのであつた。一年も居ない中に、大赦で許されて後、又元の無位から従四位下までになつて、子を四十八で亡くし、自分は一年後にあとを追うた。だから内輪に見積つても、六十五以上になるまで、恐らく命婦として宮仕へをし…