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ローマ字論者への質疑
ローマじろんしゃへのしつぎ |
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作品ID | 47171 |
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著者 | 萩原 朔太郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「萩原朔太郎全集 第十一卷」 筑摩書房 1977(昭和52)年8月25日 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2010-03-27 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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日本語の健全な發育と、その國語の純粹性を害毒するものは、實に生硬な漢語と漢字、特に明治以來濫造される飜譯漢語と漢字である。言葉に一番大切な條件は、耳で聽いて意味がわかるといふことである。耳で聽いて意味がわからず、文字に書いて見せた上で、初めて視覺から語意が通ずるといふやうな言葉を、日常語の會話に使用するやうな國民があるとしたら、世界で最も不便で最惡の國語を所有する民族と言はねばならぬ。支那人の如きは、古來から象形文字を使用し、言語が文字に書かれた場合の、視覺上の表象效果を重視したが、しかもその支那人でさへ、發音の場合は韻の四聲法を嚴重にし、異語同音の混錯を避け、いやしくも耳で聽いて語義の解らないやうな不便な國語は、決して使用しなかつたのである。日本人が支那の漢字を輸入したのは、必ずしも問責さるべき罪ではなかつた。しかしそれと同時に、漢語の正しき發音と韻律を輸入せず、日本化した無韻のデタラメで和讀したのが、國語の混亂と不便を招いた原罪だつた。特に明治以來、その無韻の漢字と漢語で、むやみに西洋の新文明を飜譯したので、今日の如き收攬しがたい状態になつたのである。
ローマ字論者と假名文字論者は、かうした日本語の不便と混亂を整理するため、必要の要求に迫られて立つたところの、一種の「文明改造論者」である。もちろん彼等の意志は、上述のことの外にも、象形文字の常習的困難を避け、日本語を音標文字化することによつて、智識と文化の普及的能率を擧げようとする實利主義にも存するだらうが、同時にこの實利主義は、國語の純粹性を守らうとする別途の意志とも、必然の關係で不離に結びついて居るのである。ローマ字や假名文字を使用すれば、今日亂用されてる如き飜譯漢語――耳で聽いて意味がわからず、文字や印刷によつてのみ、視覺から表象されるやうな言語――は勿論「製絲」「製紙」「生死」「制止」「靜止」の如き、異義同音の錯亂を伴ふ言語は、必然的に廢滅されるか、もしくは支那語の四聲のやうに、夫々の區別した發音により、正しい平仄やアクセントをもつて發音されるやうになる。そしてこの時、初めて日本語に眞の「韻」といふものが出來、支那西洋の國語と同じく、我々の言葉にもまた眞の「韻律」が發生する。すくなくともこれによつて、日本語はずつと「音樂性」を豐富にし、純正詩歌の表現に適するやうになるであらう。詩人としての僕の立場が、ローマ字論者の主張に對して、常に多分の好意を持つのはこの爲である。
だがそれにもかかはらず、彼等のローマ字論者や假名文字論者に對して、尚且つ僕が滿點の贊意を表せず、時に大いに反感の敵意をさへ表するのは、彼等の「誤つた實利主義」が、往々にして僕等の美的藝術意識と衝突し、且つ却つて國語の純粹性を破壞するところの、反日本主義的のものに思はれるからである。一例をあげて見よう。
花は咲き、鳥は鳴く。
僕は…