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古歌新釈
こかしんしゃく
作品ID47183
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 12」 中央公論社
1996(平成8)年3月25日
初出「わか竹 第三巻第四号」1910(明治43)年4月
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2008-08-28 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

自分は、かね/″\従来の文章の解釈法、殊に和歌に就いて、先達諸家のやりくちに甚だ慊らぬふしが多い様に思うて居る。もと/\、解釈と訓詁とは主従の関係に立つもので、前者が全般的なるに対して、後者は部分的である。徹頭徹尾後者は部分的といふ絶対性をもつて居る。部分的なるものゝ全般的に拡充するには、数多の部分性の集合を要する。畢竟部分性は物の一面である。立体的事実を築き上げるには、必ず異平面の集合を要するので、望む所は、異種の部分性である。訓詁は、解釈の基礎をなす有力な材料の一つであるが、同時に解釈に到るには、尚他の部分性の綜合を要する訳である。更にいふと、解釈は、内容を説明するのであるが、訓詁は、内容を作る路の言語の説明、または言綴によつて約束せられた事実の説明以上に出るものではない。殊に韻なり律なりをもつて居る文章においては、通常の散文の上に尚附加せられた若干の部分性があるので、益々以て訓詁ばかりでは足らぬといふことがわかつて来るのである。こんなことは、誰しも考へてることで、事新しくいふのが、却てをかしなくらゐのものであるが、さて実際には、一向忘れられて居る姿である。訓詁は訓詁で何処までも止まず研究して、部分性を拡充してほしい。一部の人の様に、訓詁を等閑にするものとは訳が違ふのである。従来の訓詁一点ばりの説明でも、多少事が足つたのは、聴く人の観念聯合に俟つ所が多かつたのは勿論、一面には、また複雑な文章に逢着することの尠かつたのにもよらうし、又意味の徹底といふことを思はなかつた為でもあるといはなければならぬ。
最も完全な素質を備へた読者が、文章に対して得るだけの内容を、出来るだけ適当に忠実に伝へるのが、解釈のねらふ点ではあるまいか。本居翁の古今集遠鏡の如きは、比較的内容を出さんとするに努められた痕が明かで、一読すれば、翁の頭脳の明確なのに驚くばかりであるが、まだ/\言語形式ばかりに囚へられて居た痕が見える。けれども、それから後の国学者の解釈法には、翁以上に出たものはないと思ふ。
貫之の
糸によるものならなくにわかれ路の心ぼそくもおもほゆるかな
を解いては、別れ路のこゝろといふものは、糸による片糸のやうなものぢやないけれど、心細いものであるわい、といふやうなやりくちである。徒然草を見ても、この歌が、昔古今集の歌屑といはれて居つたことが見えて居るが、これは、一つは鑑賞法が進まなんだにもよるけれど、解釈法の不完全であつたのにも一つの原因がある。
逐字訳といふもの、これも和歌には効果がない。遠鏡は、出来るだけ逐字訳をして、簡単な形につゞめようとしたものであるが、和歌の性質上、逐字訳は許されぬのであるから(このことは「和歌批判の範疇」を参考せられたい)、寧ろ強ひて内容をつゞめるよりも、読者がその歌について知るべき内容の中心を摘出するに止めておくがよろしからう。さうであるから、…

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