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唱導文芸序説
しょうどうぶんげいじょせつ
作品ID47190
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 4」 中央公論社
1995(平成7)年5月10日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-09-25 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

唱導といふのは、元、寺家の用語である。私の此方面に関心を持ち出したのも、実はさうした側の、殊に近代に倚つての、布教者の漂遊を主題としてゐた。だが、最近さうした方法が、寺家及びその末流――主として、此等の人々の自由運動に属する者が多いが――の採用することになるよりも前の形の方が、もつと大切な事の様に考へられて来た。即日本における、特殊な文学運動でもあり、又其よりも更に、大きな宗教運動の形を作る基礎になり、又地方経済生活の大きな因由を開いたものなることを、思はずに居られなくなつたからである。
唱導文学と言ふよりも、寧唱導芸能といふ方が、更に適切らしい気がする。其ほど、関聯深き他の芸との連鎖が緊密であつて、到底放しては、考へることの出来ないものなのである。だが、其れの文学側から見たものなることを意味させる為に、仮りに唱導文芸と言ふ程の名にしておきたい。文学であることよりも、まづ声楽であつたのである。更に多くは、単なる声楽たるに止らず、舞踊をも伴うて居たのである。又更に、ほんの芽生えではあるが、演劇的の要素をも持つて居り、後代になると、偶人劇としてある程度まで、発達した形をすら顕して来る様にもなつた。類似の芸能の上に見ても、必奇術・曲芸の類の演技をも含んで居つたことが思はれる。殊に、其が漂遊を、生活の主な様式とする人々の間に発達したことにおいて、後世の所謂演芸分子の愈増大した事が想はれ、又事実において、さうした傾向が、著しく窺はれもするのである。
唱導文学とは、宗教文学であると共に、宣教の為の方便の文学であり、又単に一地方の為のみではなく、広い教化を目的とするものである。ある宣布を終へた地方から、未教化の土地へ向けて、無終に展べられて行く事を考へてゐる者でなくてはならない。だから当然、旅行的な文学である。さうして唯、其文学が旅行するばかりでなく、文学そのものゝ主題が亦、旅行的なものにすら傾いて来るのである。此は、概論でなく、事実であつた。譬へば、最後代的なものを捉つて見ても、さうである。
高野山に於ける浄土聖、萱堂の非事吏の間に発達したと思はれる苅萱道心親子の物語は、出発点を九州に、頂点を高野山に、結末を信州に置いて、一見、此説経者の文芸が、其三つの地の何れに発祥したものか知れなくなつてゐる。又、おなじ五説経の「山椒太夫」にしても、前者が、善光寺親子地蔵の縁起である様に、「かなやき地蔵」の由来と伝へて、丹後由良湊の事の様に見えてゐるが、事実は津軽岩木山の神と、切つても切れぬ因縁を持つてゐる。簡単な結論の容易につけられない問題ではあるが、ある部分まで言うて正しいことは、一つの地方に根ざした信仰が、搬ばれて行つた途中にも、根を卸す場所が出来て、其処を以て、一条の物語の結末を告げ、又くらいまっくすを作ることになつたのである、と言ふ見方も確かに成り立つのである。文芸が旅行す…

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