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![]() じゅくごこうせいほうからかんさつしたごこんろんのだんかん |
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作品ID | 47191 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 12」 中央公論社 1996(平成8)年3月25日 |
初出 | 「川合教授還暦記念論文集」1931(昭和6)年12月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2008-09-07 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 26 ページ(500字/頁で計算) |
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私が単語の組織を分解するのは、単語の研究が実の処、日本の詞章の本質を突きとめて行くことになると思つてゐるからである。語根の屈折に就いて考へるには、先づ熟語に就いて見るのが一つの方法である。其には、語根と熟語の主部と言ふものを考へて見なければならない。茲に山と言ふ言葉があると、其を修飾する言葉がついて熟語が出来る。この主部に関しては、只今は問題にせずに置く。蓋然の儘に残しておいてもさし支へのないものとして、話を進めて行かうと思ふ。
扨、熟語の中の主部に対して、此に或語根がついて熟語を作つて行く。即語根は、修飾的につく訣である。其つき方は、今日の我々から考へると、古代もやはり今の様に、熟語をつくる修飾語が主部の上に乗りかゝつて居るといふ風に、専考へられさうである。事実さういふ例も沢山ある。ところが、今一段考へを進めて見ると、古代には、修飾の職分をとる語根が、主部より下に据ゑられた事実が沢山あつたのである。却て、其方が、正式であつたらうと思はれる位である。我々の口頭文章の基礎としての国語は、かうした時代を過ぎて記録せられて来たのであつて、さうした前代の熟語法の痕跡が、文献時代に残つて居つたのである。例へば、梯をはしだてと言うてゐる。播磨風土記を見ると、俵を積み上げて天に昇る梯を作つた時に、梯のことを立レ橋と書いてゐる。橋は梯である。我々の知つて居る限りでは、はしと言へば水平に懸つてゐる橋ばかりを考へるが、昔は渡る或は渡すと言ふ様な場合、即、此方から彼方へと二つの場所を繋ぐものは総てはしで、垂直的のものをもはしと言うたのである。其を立レ橋と言ひ、これを名詞とした場合にははしだてと言つて居る。此を我々の文法意識から言へば、たてはし(竪橋)といふはずのものであるが、此を橋の立つた物と理会してはならないものなのである。
次の例は、大和に於ける地名例が文献的には一番古いが、山城或は其他の各地にも、或は又普通名詞のやうにも使はれて居るものに、傍丘(又、片岡。或はかたをかやま)といふ言葉がある。只今の言語情調から言へば、丘の傍の平地の其又傍にある所の其丘、といつた方になるのである。里・野があつて、其処に丘がある訣である。併し、此は現在の理会である。其が後になると、直接丘を指す様になつたので、丘其は傍にある丘、といふ風に、再び丘に還つて来る。それで、傍丘が丘の名で、丘を修飾してゐるのだ、と思つてゐるが、昔の人は今の人と文法意識を等しくするものでないのだから、地或は野など言ふ主部は、暗示に止めておいて訣つた。その為、かうした形をとつたのである。謂はゞ、丘の傍の「土地」といふ形でも宜いのである。傍丘は丘の名ではなく、丘の傍といふ事で、今ならば、恐らく不安定を感じる筈の丘傍と同じ意味の言葉であつた。此は、はしだてとも同形式で、我々なら竪橋と言ふところをはしだてと言ひ、丘傍を傍丘と言うた…