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短歌の口語的発想
たんかのこうごてきはっそう |
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作品ID | 47192 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 12」 中央公論社 1996(平成8)年3月25日 |
初出 | 「アララギ 第十巻第三号」1917(大正6)年3月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2008-09-03 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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短歌に口語をとり入れることは、随分久しい問題である。さうして今に、何の解決もつかずに、残されてゐる。
一体どの時代でも、歌が型に這入つて来ると、大抵は珍しい語に逃げ道を求めた。形式の刺戟によつて、一時を糊塗しようとするのである。若しわれ/\が、文献に現れた死語・古語の中から、当時に於ける口語・文語が択り分けられるとしたならば、必、多くの口語的発想を見出すことが出来ようと思ふが、今日では容易な仕事ではなくなつてゐる。散木弃歌集あたりには、それでも多くの口語を見ることが出来る。実は、この話の最初に歴史的に見た、口語と文語との限界に就いて、予め述べておかねばならない筈なのであつた。何時の時代にも、文語と口語との区別は、大凡立つてゐた事なので、たゞそれが、今日ほど甚しくはなくて、幾分互ひに譲歩しあふ事があつたといふばかりで、今の人の考へるやうに、口語その儘を筆録したのが、直に文語とならない事は、今日の口語文を見ても知れるであらう。二葉亭や美妙斎の大胆な試みに過ぎなかつた時代から見れば、今日の口語文は、確に一種の形式を備へたものになつて来てゐる。多くの人は、です、だを会話語として、文章語としてはであるを使うてゐる。よく/\、修辞上の必要のある場合の外は、のつけにとは言はないで、最初にといふ。かうして現代語の中にも、幾分、硬化しかけてゐる正確な語を、文章語にむけてゐるのである。
これまでの研究でも時間の助動詞つ・きはぬ・けりと較べて、会話的要素の多いものとせられてゐる。俊頼などが口語を取り容れてゐる、というたところで、名詞に止つてゐるので、一つの短歌の全体の発想には、大した影響を持つてゐないものである。西行あたりになると、まゝ、会話語と文章語との判断を誤つたらしいふつゝかさが見えてゐる。さうして全発想に深い影響のある動詞・副詞などにも、会話語が尠からず混じてゐる容子である。が併し、これは西行の出身が、もと/\無学であるべき筈なのであるから、不思議はない。山家集を見て、折々さうした処に気のつくのは、会話語の発想法が、まだ、純化を経て取り入れられてゐなかつた証拠である。景樹なんどは、あれでなか/\動揺した男で、「一寝入りせし花の蔭かな」「それそこに豆腐屋の声聞ゆなり」などの試みをしてゐる。けれども、これも口語をもつて文語的発想を試みた、と言ひ換へる方が寧適当であらう。代々の俗謡類を見ても、必会話語その儘を用ゐたものとは思はれない。どうしてもいくらか宛形式化し、硬化させてゐる傾きがある。して見れば、短歌の上には何時も、文語即古語・死語・普通文語ばかりを用ゐてゐねばならないであらうか。古語・死語の利用範囲も限りがあらうし、現代の文語でもだん/\硬化の度を増すに連れて、生き/\とした実感を現すことが出来なくなる。限りある言語を以て、極りなくわれ/\の内界を具象して行かうとするには…