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日本文学の発生
にほんぶんがくのはっせい |
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作品ID | 47198 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 4」 中央公論社 1995(平成7)年5月10日 |
初出 | 「人間 第二巻第一―四号」1947(昭和22)年1~4月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2009-09-17 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 54 ページ(500字/頁で計算) |
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何度目かの日本文学の発生を書くことになつた。此には、別に序説のやうなものがあつて、此文章と殆ど同時に発表することになつてゐるから、具体的なことを、落ちついて書き進めても、さし支へはないのだと言ふ、安堵のやうなものがあつて、之を書くことが、今のうちは、愉しい気がする。どうぞ、この心持ちが、いつまでも続いてくれるやうにと考へながら、書き出しを作る。
詞章伝承の情熱の起り
伝承する習俗と、把持する意力とが先祖の心になかつたら、吾々の文学は、どうなつて居たか知れない。恐らく、文学の現れずにしまつた訣もなからうが、ちよつと想像出来ぬ姿と、内容とを持つた、もつと脆弱なものが出て来たことであつたらうと思ふ。吾々の先祖は、何も神に報謝する為に、神の詞を伝へようとしたのではない。神の威力の永続を希うて、其呪力ある詞章を伝へ遺すまい、と努力して来たのであつた。
この詞章を伝承する事業は、容易なことゝは、昔の人程考へては居なかつた。こゝに、日本の古代宗教の形態の拠り処があつたらしく思はれる。神が神としての霊威を発揮するには、神の形骸に、威霊を操置する授霊者が居るものと考へた。神々の系譜の上に、高皇産霊尊・神皇産霊尊――天御中主神の意義だけは、私にはまだ訣らぬ――を据ゑて居るのは、此為であつた。此神の信仰が延長せられて、生産の神の様に思はれて来たが、むすびと言ふ語の用語例以外に、此神の職掌はなかつたはずである。
形骸に霊魂を結合させると、形骸は肉体として活力を持つやうになり、霊魂はその中で、育つのである。さうして其霊魂は、肉体を発育させる――さう言ふ風な信仰が、更に鎮魂の技術を発達させることになつたのである。だから、産霊は信仰で、鎮魂は呪術といふことになる。
高皇産霊・神皇産霊二神の中、多くの場合、高皇産霊尊を代表と見なしたことであつた。又当然、二尊の間に、職掌の分担を考へてゐたことも思はれる。ともかくも、産霊ノ神の職掌の重大な部分として挙げてよいものが、一つある。
尊い神が、神の詞を宣る時に、其を自ら発言することの出来る資格を授ける為に、此神の出現したと考へたのが、古代の考へ方である。天照大神に添うて、此神の出現する時は、重要な神事が行はれる訣である。
天照大神の神格については、いろ/\の考へもあるが、此神に、人間的な要素を深く考へてゐたことは忘れてはならぬ。最大の神言を発せられる場合に、きまつて居ると言へる。其人格をして、十分に神の能力を伸べさせるには、どうしても威霊を、その身に結合させる外はない。この大神をして、完全円満にして、永遠に効験ある神言を発せさせ申す為には、さうした大威力ある霊魂を、神の体中に置かねばならないとしたのである。其威霊は別に存在するものとして、その霊魂を処置するものなる、高皇産霊尊は、どうしても考へねばならなかつた訣である。かうして、最高…