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夭折した富永太郎
ようせつしたとみながたろう |
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作品ID | 47355 |
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著者 | 中原 中也 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「富永太郎詩集」 思潮社 1975(昭和50)年 7月10日 |
初出 | 「山繭」1926(大正15)年11月号 |
入力者 | 高柳典子 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2008-05-08 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
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ほつそりと、だが骨組はしつかりしてゐた、その躯幹の上に、小さな頭が載つかつてゐた。赤い攣れた髪毛が額に迫り、その下で紅と栗との軟い顔がほつとり上気してゐる。黒く澄んだ、黄楊の葉の目が、やさしく、ただしシニカルでありたさうに折々見上げる。
彼は今日、重欝なのだ。卓子に肘を突いたまゝ、ゆつくり煙を揚げてゐる。尤も喫つてゐるものだけはうまさうだが。戸外は――地面は半ば乾いてあつたかい、空を風は、目標ありげにとぶ、梅雨期の或る一日だ。
そして今彼に対面する者は、彼をただ友人とのみ考へるなら、余りに肉親的な彼の温柔性に辟易しなければならない破目になるだらう。さしづめ、彼は教養ある「姉さん」なのだが、しかしそれにしては、ほんの少しながら物質観味の混つた、自我がのぞくのが邪魔になる。
友人の目にも、俗人の目にも、ともに大人しい人といふ印象を与へて、富永は逝つた。そしてそれが、全てを語るやうだ。
人が、真率にして齢を重ねる時、「習慣」の存在に対して次第に寛容になることは、自然なことである。そしてそれは、それまではよろしい。けれどもやがて彼がその寛容を手段の如く把持するに至つて、彼は堕落である。だが、寛容であることは自説的であるよりも遙かに易しい。良心は遅かれ早かれ、磨滅する性質のものだ。それから、人々によつて真面目な手記と見做されてゐるものはすべて、これら寛容な人達、殊には老人の手によつて遺された。
真率にして富永は齢を重ねていつた。寛容を識つた。ところで代は甚だしいヂャナリズムでいつぱいだつた。彼は、自我崇拝主義者(となつた)であつた。智的享楽性に乏しくされた。ユーモアを虐待することと、人格者であるといふことと、平和と苟安とは同義で通用する日本の、そして帝都は彼の育つた雰囲気であつた。かかる時自我崇拝主義は微笑んだ――。
ボオドレヱルは「自我崇拝閣下」と綽名された。けれども一方、会衆の前に飄然として出て来て、「君、赤ン坊の脳髄を食つたことがありますか」などといつてゐる。そしてかうした例は彼について多い。然らばボオドレヱルは――ボオドレヱルのは、彼が彼自身の部屋に於ける、天才的狂爛の、それが対他するに際して、即ち狂爛が諦念の形式にまで置換されるに際して、その瞬間線上に於ける「自我崇拝閣下」であつたのだと、君が若しボオドレヱルを好きなら考へなければなるまい。さうしてサムボリスムなる名称のきまるまで、その一派は「デカダン派」を以て自称してゐることを思い合せて貰はう。
富永は、彼が希望したやうに、サムボリストとして詩を書いて死んだ。
彼に就いて語りたい、実に沢山なことをさし措いて、私はもう筆を擱くのだが、大変贅沢をいつても好いなら、富永にはもつと、相像を促す良心、実生活への愛があつてもよかつたと思ふ。だが、そんなことは余計なことであらう。彼の詩が、智慧といふ…