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星あかり
ほしあかり |
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作品ID | 4741 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「鏡花全集 巻四」 岩波書店 1941(昭和16)年3月15日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 鈴木厚司 |
公開 / 更新 | 2003-06-02 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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もとより何故といふ理はないので、墓石の倒れたのを引摺寄せて、二ツばかり重ねて臺にした。
其の上に乘つて、雨戸の引合せの上の方を、ガタ/\動かして見たが、開きさうにもない。雨戸の中は、相州西鎌倉亂橋の妙長寺といふ、法華宗の寺の、本堂に隣つた八疊の、横に長い置床の附いた座敷で、向つて左手に、葛籠、革鞄などを置いた際に、山科といふ醫學生が、四六の借蚊帳を釣つて寢て居るのである。
聲を懸けて、戸を敲いて、開けておくれと言へば、何の造作はないのだけれども、止せ、と留めるのを肯かないで、墓原を夜中に徘徊するのは好心持のものだと、二ツ三ツ言爭つて出た、いまのさき、内で心張棒を構へたのは、自分を閉出したのだと思ふから、我慢にも恃むまい。……
冷い石塔に手を載せたり、濕臭い塔婆を掴んだり、花筒の腐水に星の映るのを覗いたり、漫歩をして居たが、藪が近く、蚊が酷いから、座敷の蚊帳が懷しくなつて、内へ入らうと思つたので、戸を開けようとすると閉出されたことに氣がついた。
それから墓石に乘つて推して見たが、原より然うすれば開くであらうといふ望があつたのではなく、唯居るよりもと、徒らに試みたばかりなのであつた。
何にもならないで、ばたりと力なく墓石から下りて、腕を拱き、差俯向いて、ぢつとして立つて居ると、しつきりなしに蚊が集る。毒蟲が苦しいから、もつと樹立の少い、廣々とした、うるさくない處をと、寺の境内に氣がついたから、歩き出して、卵塔場の開戸から出て、本堂の前に行つた。
然まで大きくもない寺で、和尚と婆さんと二人で住む。門まで僅か三四間、左手は祠の前を一坪ばかり花壇にして、松葉牡丹、鬼百合、夏菊など雜植の繁つた中に、向日葵の花は高く蓮の葉の如く押被さつて、何時の間にか星は隱れた。鼠色の空はどんよりとして、流るゝ雲も何にもない。なか/\氣が晴々しないから、一層海端へ行つて見ようと思つて、さて、ぶら/\。
門の左側に、井戸が一個。飮水ではないので、極めて鹽ツ辛いが、底は淺い、屈んでざぶ/″\、さるぼうで汲み得らるゝ。石疊で穿下した合目には、此のあたりに産する何とかいふ蟹、甲良が黄色で、足の赤い、小さなのが數限なく群つて動いて居る。毎朝此の水で顏を洗ふ、一杯頭から浴びようとしたけれども、あんな蟹は、夜中に何をするか分らぬと思つてやめた。
門を出ると、右左、二畝ばかり慰みに植ゑた青田があつて、向う正面の畦中に、琴彈松といふのがある。一昨日の晩宵の口に、其の松のうらおもてに、ちら/\灯が見えたのを、海濱の別莊で花火を焚くのだといひ、否、狐火だともいつた。其の時は濡れたやうな眞黒な暗夜だつたから、其の灯で松の葉もすら/\と透通るやうに青く見えたが、今は、恰も曇つた一面の銀泥に描いた墨繪のやうだと、熟と見ながら、敷石を蹈んだが、カラリ/\と日和下駄の音の冴えるのが耳に入つて、フと立留…