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橘曙覧
たちばなのあけみ
作品ID47549
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 14」 中央公論社
1996(平成8)年5月25日
初出「東京新聞」1943(昭和18)年2月26日
入力者kompass
校正者門田裕志
公開 / 更新2013-04-02 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

曙覧は文化九年、福井市内屈指の紙商、井手正玄の長男として生れたが、父祖の余沢に浴することをせず、豊かな家産と名跡、家業を悉く異母弟に譲つて、郷里を離れた山里や町はづれに、さゝやかな藁家を構へ、学究歌道に専念した。庶民の子として、これはあるまじき独行であつた。若くして仏教を学び或は窃かに京師に赴いて、頼山陽の高弟児玉三郎(旗山)の塾に入り、呼び返されても、一途にもたげる学究の炎は消えず、江戸に走つて転変の世相に深い感銘を受けた。
雲脚の変幻極まりない時代の姿を、曙覧他界した慶応四年八月前後の北陸辺に関して抽出してみると、同月会津征討越後口総督府参謀西園寺公望が村松に入り、その翌日長岡藩の反将河井継之助が敗死、同年六月会津征討越後口総督嘉彰親王が征途につかれ、廿七日敦賀に御宿せられ、八月十二日には越後三条に進まれてゐる。その二日前、十日には鹿児島から廻航した西郷隆盛が、柏崎に来着して総督宮に拝謁、新潟に向つてゐる。新代の御光が洽く照り映えようとする直前に、彼は五十七年の生涯を終へたのである。所謂端倪すべからざる時代の波は、彼の在世中ずつと、辺土の領国松平藩をも内外ともに揺り動かしてゐた。この内外多端の時にあつて、古義神道を探求し、厳たる皇国観念に徹した彼は、私情に於て藩主破格の厚情に感泣し乍ら、重なる招聘にも応ぜず、藩禄を食まうとしなかつた。橘左大臣諸兄の末裔にして、大君の直臣なりとの堅い信念を貫き通し、倦みなく藩内武士の血脈を衝いて勤皇観を植ゑ付け、時代に迷ふ福井藩を遂に動かして、勤皇運動に押し出したのだつた。一歌人の業としてこれほどの大業は嘗てない。
松平慶永(春嶽)は、江戸田安家に生れて、斉善のあとを嗣ぎ、福井城に君臨した賢明なる名君であつた。曙覧は一介の町人でありながら、春嶽公の恵みを受け、彼の藁家に藩主自らの来訪を忝なうしたほど、心の繁りがあつた。また福井藩第一の勤皇家にして、明治の御世にも功深かつた中根靱負(雪江)とも深い友誼の仲だつた。当時のしきたりからすれば、所詮国事を憂ふるに値せぬ地下人でありながら、国学者・歌人であつた許りに士人と交遊し、復古の情熱を周囲の関係者に注ぎ込んだ。江戸将軍家の親藩であり、将軍に誠意を示すことをよしとする傾向の、未だ多かつた福井藩を、維新の大業に干与させた、藩主並びに中根氏の陰には、蓋し曙覧の意力の注がれたものがあると言つても過言ではない。
しかも、かうした勤皇思想の鼓吹は実に危険な行動だつた。藩主の意の通り動いた橋本左内が、刑死したのを見殺しにするほかなかつた、藩の動向だつたのだ。藩主とは云へ側近の者より、自分の意志が通じなかつた。春嶽の宗家・末家の感を超える勤皇行為、篤胤門に入つて復古運動に走つた雪江、この主従が苦しんだ板挟みの境遇、薩州その他の堪へ難い圧迫にさいなむ苦衷は、曙覧の心を悲壮なものとしたに違ひない。…

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