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組踊りの話
くみおどりのはなし |
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作品ID | 47692 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 21」 中央公論社 1996(平成8)年11月10日 |
初出 | 「日本民俗 第十二号」1936(昭和11)年6月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | フクポー |
公開 / 更新 | 2019-09-23 / 2019-08-30 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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組踊りは、また冠船踊りとも言うた。明治以前、今の尚侯爵の先祖が琉球国王であつた当時、その代替り毎に、支那がそれを認める冊封使といふものをよこした。その使者を乗せた、飾り立てた船をお冠船といひ、それを迎へる踊りであつたからだ。其時には、王宮内に舞台を造つて、そこで演じたので、役者は、すべて貴族・士族の階級から、主として若いものを選んで訓練をしたのである。それを、踊りの性質から言つて組踊りと称した。
すべて演劇は綜合芸術であるが、殊に組踊りはおぺらの様なもので、沖縄の演劇・舞踊・歌謡・器楽の類を全部とり込んでゐるので、それが幾組か連続的に行はれるのである。で沖縄の人は、組踊りとは、幾組か組んだ踊りの意だ、と感じてゐる様であるが、私は、さうではあるまいと考へてゐる。何故ならば、演芸種目の全部が組踊りでなく、その中の、特に演劇的なものだけを言つてゐるからである。或は、殊に面白いものを言つてゐるのかも知れない。とにかく、普通沖縄では、劇的為組みの濃厚なものだけを組踊りと言つて、他の奇術的のものは、組踊りと考へてゐないのである。
ところが、只今では、沖縄でも、此組踊りをいつでも見るといふわけに行かないのである。一人でやれる芸でないから、いつでもやれる、又、一度やれば一年後にやれる、といつたものでなく、数人が相当の期間稽古をしなければならぬので、段々衰へて来た。明治以前は国王の保護があつたけれども、明治以後はそれがなくなつたので、もう真面目にやれなくなつたのである。只今残つてゐるのは、一代前の冠船踊りをやつた人が好きな人に伝へた、それが残つてゐるのであるが、その先輩達も、もう古老に達してゐるので、此人達がなくなれば演出をする人がなくなつてしまふ。我々が急いで此催しを企てた所以である。
今度もつて来る組踊り四つは、いづれも本土の能と関係のあるもので、考へ方によつては、能を観た沖縄の人が、国へ帰つてその地の事情に合ふやうに作りかへたとも見られるのであるが、本道は土台になるものが向うにあつたのである。それが、本土の発達した演劇に触れて、新しいものを書き、振りをつけ、曲をつけるやうになつたので、此中には、まださうした影響をうけない前のものと近代にとり入れたものとが交つてゐる。で、向うでもて囃されるものは、本土のを真似たもので、沖縄のものは、劇的興奮が少いと言はれてゐる。譬へば、「手水の縁」などは、沖縄の豪族の息子と娘とを取材にした、沖縄の事情に通じたものであるが、一向に面白くないと言はれてゐる。
此度持つて来る「二童敵討」は、疑ひなく「小袖曾我」の焼き直しである。工藤に当るのが、勝連の阿摩和利といふ伝説的の梟雄で、それを鶴松・亀千代の二人が討ちに行くのである。阿摩和利は、玉城盛重氏得意の芸で、花道を出て来て、七目付といふ事をする。沖縄の人は、それを大変感心して見てゐるが、恰度、能…