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東北民謡の旅から
とうほくみんようのたびから
作品ID47703
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 21」 中央公論社
1996(平成8)年11月10日
初出「東北民謡試聴団座談会記録」1941(昭和16)年5月
入力者門田裕志
校正者フクポー
公開 / 更新2018-10-12 / 2018-09-28
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

奥州から出羽へかけての旅、時もちやうど田植ゑに近くて、馬鍬や、[#挿絵]を使ふ人々が、毎日午前中に乗つてゐた汽車の窓の眺めでした。かうして民謡試聴会場に這入ると必、何か農耕と関係の深い民謡や民俗舞踊を見せて貰ひました。昔、芭蕉は白河を越えるとすぐ、「風流のはじめや奥の田植唄」の句を作つてゐます。此は田植ゑに都風な唄を用ゐはじめた昔物語を聞いたからでせう。奥州の村人が都の風流にふれたのは、さうしてはこばれた田植ゑ唄を以つてはじめとする。ところが奥州へ這入つて、直に耳にしたのは、「田植ゑ唄」である。それを聞いて、恍惚として昔人に還つた思ひで居たのでせう。奥州の芸能文化の歴史が、人に知られるほどに、遠からぬ世のことだつたのです。私どもは、毎日々々聞いて廻つた民謡や、舞踊の上に、此句とおなじ感傷を浮べて聞いたり見たりしてゐました。
奥州の田植ゑ人に歌謡を与へたのは、平家物語を初めて弾いた生仏と言ふ盲人だと言ふのが、「菅菰抄」以来の説ですが、其菅菰抄には、今一説あつて、某大寺の住僧が、奥の人々のあぢきないたつきを憐んで田植ゑに唄を与へたのだといふ伝へもあつたやうです。ともかくも相当古い時代だとは言つて居るのですが、人がわかつて居るだけに、時代も自ら想像出来ます。年代が知れると言ふことは、伝説の上においては、それが史上の人物・時期を謂つてゐるにしても、可なり降つた世の事だと思はれるのです。ともかく相応に新しい世に、新しい文化の一つとして、田の芸能が奥州に這入つて来たことを知識にする前に、先以つて情緒に沁ませようとしたものである。此句は全く歴史を回想したものでない様に考へられ、其方が通つてゐる様でもある。旅人が奥州風流にふれた第一の印象が田植ゑする人、その「田植ゑ唄」だとするのである。それはともあれ、私どもは東北六県民謡の旅から帰る途にも、これと同じ感動を心に強く持つたのでした。これは座談会の節も申しましたが、芭蕉の心持ちも話したのでしたが、筆記には声がかすれて出て居ません。それでその出発点から筆をつけて、私の座談の行き届かない所を補ひます。
「田植ゑ唄」ばかりでなく、凡古風なと思はれる唄でも、奥へ這入つたのは、相当に新しい時代だつたことが思はれます。その当初の印象が、まだ唄の曲節の上に残つてゐると申したのも、此処のことでした。民謡舞踊一つ/\について、歴史がある訣ですが、詳しいことは勿論わかりますまい。唯、可なり古く這入つたものも、まだ生き/\として居り、それが極近代に這入つたものと、新鮮な感触を以つて接続してゐることを感じさせるのです。随つて土著の歴史の古いものは考へられても、今のところ固有のものをとり出して見るといふことは出来さうもありません。勿論生得東北根生など言ふのも、必、あるにはあるでせうが、どれがさうだと言ふ訣にはまゐりかねます。山唄を元とする山唄、「しほで…

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