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民俗芸能の春
みんぞくげいのうのはる
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 21」 中央公論社
1996(平成8)年11月10日
初出「青年 第三十二巻第三号」1947(昭和22)年3・4月
入力者門田裕志
校正者フクポー
公開 / 更新2019-02-11 / 2019-01-29
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

日本青年館の長い履歴の間に、人は、その多くのよい成績をあげるであらう。だが若し、曾て数年間連続して春秋毎に催した郷土舞踊・民謡の会をあげることを忘れたら、私など、その人の採点法を大いに疑ふだらう。日本青年館本来の目的から派生した枝葉の事業ではあつたらうけれど、あの為事などは、かう言ふ団体でさうしさうで居て、かう言ふ団体が、さうしないで過すやうな種類のものであつた。日本の農山海村の持つてゐる古典的な生活文化を、一往吟味し直さうと言ふ気持ちから出て、結局日本人の芸能文化に通ずる、普遍的な要素を発見して驚くことが屡であつた。我々にさう言ふ心持ちの起る毎に、青年館の存在にどれほど意義を感じたか知れない。さうして其は却て、あり難迷惑に思つた人があつたとしたら、どうだらう。併し戦争前の世間には、さうした庶民生活に理会乏しい人たちが居た。それが民間事業などに関係して、こじれた固定した理論を以て、自分の識者らしさを誇示しようとした。さう言ふ考へ方からは、国の芸能文化などは、何の反省の資料にもならないのである。
今はかう言ふ世の中になつた。我々は出来るだけ早く、和やかで礼譲深い、而も節度ある生活をとり戻さなければならない。宗教はかう言ふ時の為に用意せられた救ひである。だが日本の国の様に、前からある宗教に権威は感ぜず、新しく興り来る信仰は無難に育てあげて行かない国、かう言ふ状態で完備した宗教生活など、急に求めて得ることは出来ない。我々が宗教に期待する所は単に其だけでは勿論ないのだが、かう言ふ際、一等宗教からとり入れることの出来る救ひは、その与へる和やかで、礼譲があり、節度を欠かぬ、生活の基になる力である。今のところ急に新しい宗教から、其を受容することが出来ぬとすれば、せめて古い宗教からでも、或は、宗教系統のものからでも、さうした生活を導いて来る外はなからう。
御存じのとほり、我が国土に散在する農山海村には、古い信仰が生活規範となつて、匂はしく、懐しい、手堅い習俗を作つて来てゐる。たとへば、ある村の冬の山祭りには、巨人が出て来て踊り遊ぶ芸能が行はれる。ある部落の山の堂の初春の仏事には、田楽や猿楽の俤の、身に沁みて感ぜられるやうな舞踊や、歌謡が残つてゐる。又盂蘭盆の法会に伴ふ、国中到る処の踊りや、踊り唄は、殆すべてがかはつてゐると言つてよいほど、個々の特色を示してゐながら、いまだに催されてゐる。さう言ふ年中行事に触れる村びとは、その都度村人としての感情を深く身に沁ませるのであつた。此がどんなに、過去の地方人を、美しく古い文化に生きる地方人として、生きかたを感じさせて居たことであらう。
今我々の中、誰が生きかたを深く思うてゐるだらうか。生き甲斐なき世に生きのたつきを見出して行かねばならぬ。詮なくて生きねばならぬと言ふやるせない境遇に忽然として我々は居ることになつたのである。地方人の生…

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