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戞々たり 車上の優人
かつかつたり しゃじょうのゆうじん
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「日本演劇 第四巻第八号」1946(昭和21)年9月
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-01-18 / 2018-12-24
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

まことに、人間の遭遇ほど、味なものはない。先代片岡仁左衛門を思ふ毎に、その感を深くする。淡々しい記憶が、年を経て愈濃やかにして快く、更に何か、清い悲しみに似たものを、まじへて来るやうな気がしてゐる。
役者なんぞに行き逢うて、あんな心はずみを覚えたと言ふことは、今におき、私にとつては、不思議に思はれる程である。年から謂つても、十四五―六の間、純と言へば純、だが上ついたと言へば、又少年らしくない、うは/\したところのあつた訣であらうか。世間に名の出た人にあうて、妙に其が吹聴したくなる。――あの肩の昂るやうな心持ち。我乍ら、あの軽浮さが、――信頼出来なくなるやうな、唆られる気味あひ――。その頃はまだ、我当と言うた役者に行き逢うて、此が所謂小松島屋といふ鍋蓋の紋を持つた役者だと感じたことが、既に、何だか、町の少年としても、早熟に過ぎた気がする。さう考へたゞけで、後々までも、私は赧くなつたことを覚えてゐる。その頃の私の、最多く見た芝居は、斎入市川右団治の舞台であつた。其と我当との、一座した期間があつて、それが又、大阪芝居の上では、相当記憶すべき時期となつて居る。だが其は、私が、しげ/\芝居に出入りしたよりは、一時期後であつて、主として、右団治が、角ノ芝居に拠ることになつた頃の事と思ふ。その前の数年間、中ノ芝居に毎年顔見世の手打ち芝居から続けてゐた右団治(斎入)、それに、荒五郎・正朝・琥珀郎・玉七などの一座を見て居たのである。この時期は、先代我童仁左衛門狂死の直後で、其に一部の責任あるもの、とせられてゐた斎入に対して、世間への義理からでも、悪意を表現して居ねばならぬ我当であつた。だから、一座に顔を揃へる訣には行かなかつた。其で何方かといへば、却て別の座に拠つてゐた鴈治郎を見る機会はあつても、我当を見ることは、甚稀だつたのではないかと思ふ。見知らぬ筈もないが、素顔を見てすぐ我当だと訣る程、彼の舞台になじんでは居なかつた。其かというて、新聞や、演劇雑誌で見覚えるといふ時代でもなかつた。役者写真といへば、道頓堀の石川屋――後の石川呉服店。元、石川屋というたかどうかも、はつきりしない――で、わびしい台紙に、人気役者の写真をはつて売つてゐたほかはない頃である。
何でも――当時、加賀の屋敷――西横堀川金屋橋西詰から北、木綿橋の南に亘り、西はおなじ橋から今の電車線路を越えて、ずつと、更に長く西に及んでゐた――確か、堀江「橘通」が、其屋敷の北側を通つてゐた――中を、西横堀に偏よつて裁ち割つたやうにして、新しく出来た市内電車を通したばかりの時であつた。木綿橋から来た処に、停留場が出来たが、殆、乗りおりのない場処であつた。何処かへ使に行つて、帰り途こゝへ出て来た私より前から、車を待つてゐる中年の人がゐた。背のすらりと高い――やうに感じたが、此はその時の空目の印象であつたらう。――まだふえる…

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