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菊五郎の科学性
きくごろうのかがくせい
作品ID47794
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「幕間 別册第四十五號」和敬書店、1949(昭和24)年8月1日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2018-07-10 / 2018-06-27
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

ことしの盂蘭盆には、思ひがけなく、ぎり/\と言ふところで、菊五郎が新仏となつた。こんな事を考へたところで、意味のないことだけれど、舞台の鼻まで踊りこんで来て、かつきりと踏み残すと言つた、鮮やかな彼の芸格に似たものが、こんなところにも現れてゐるやうで、寂しいが、ふつと笑ひに似たものが催して来た。

このかつきりした芸格は、同時代の役者の誰々の上にも見ることの出来なかつたものと言へる。此を、彼の芸が持つ科学性と言つても、ちつともをかしくない。左団次なども聡明と言ふ側から、同質の特徴を持つた人のやうに考へる人があるかも知れぬが、其は時流性とでも言ふべきもので、時代の受け容れ方が、どう言ふ傾向に向いて居るかを、よく弁へて居た人であつたのだ。歌右衛門なども、何か、かうかつきりした所の、目についた人だが、此常識が、珍しい程度に発達して居て、判断が正確だつたと言ふ側の人であつた。単純化と言つた才能はあつたが、芸の正確と言ふ点には疑問がある。
劇作家の如く綿密な企劃を以て、彼のからだの戯曲を舞台の上に書いて行つた。だから役者であるよりも、演出者としての、優秀な技能を持つてゐるのではないかと思はれた位だ。この点では、今後も暫らく、此人に似た者の出て来る期待は、持てさうもない。

歳が長じると共に、彼の芸の上に目立つて来たことは、芸量が深くなつたことでもない。芸域の広くなつたことでもない。この計算どほり表現しようとする彼の科学性が、益発揮したことであり、其よりも更に我々を驚かしたのは、其指物師の様な細緻な計数を土台として、其を超える芸の自在性が溢れて来たことであつた。市村座時代の此人には、実はまだ、あまりさう言ふ芸術味の氾濫を見せなかつた。だが、勘弥去り、吉右衛門去り、友右衛門――当時、東蔵――去り、彦三郎・三津五郎去りした結果、おのれの性格の欠陥を自覚すると共に、人にあきらめを置くことが出来るやうになり、一種の寛容に似た風格が生じて来た。彼の技芸の伸びて来たのも、其からである。彼の相手に廻つた女形は、此は叛くと言ふ形でなく、一人々々彼から去つて行つた。菊次郎・国太郎から、米升・栄三郎まで死んでしまつた。ちようど其頃、彼の芸が、俄かに光り出した。菊五郎が死ぬのではないかと思はれたのは、その頃であつた。世間に物色して、やつと秀調――先代――を覓め得た時の、常磐津のお園六三の、六三郎のよさは、まだ覚えてゐる。舞台の自在性は、彼の生命の発光だと思はれた位である。彼の二枚目が特殊性を発揮したのは、此時からである。
何と言つても、役者よりは、文学者の方がまだ幸福であつた。一流作家よりも、先行する批評家などは容易に望まれないが、其でも作家が知的に進んでゐるだけに、評論家も全く油断はして居ない。ところが、劇評家と言はれた昔のじやあなりすとたちに、一流の役者を凌ぐだけの別の教養を持つた人はなか…

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