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芸の壮大さ
げいのそうだいさ
作品ID47797
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「東京新聞」1948(昭和23)年9月9日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2020-11-11 / 2020-10-28
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


日本の大貴族であつた人が、東京劇場の先代萩政岡忠義の段を見てをられた。その真うしろの席に偶然見物してゐたのが私だ。七日のことだつた。山城少掾が語り、文五郎が政岡まゝたきの人形を使つてゐる。大貴族なるが故に、今までほしいまゝにすることの許されなかつた、芸の喜びにふけつてゐる人の心が、時々私の胸に触れて来た。この国の歴史には、さして高くない民たちが、権勢の擁護もなく、これだけの驚くべき芸を築きあげてゐた。思ひがけない戦争が過ぎて、これ等「民の芸」に持つた自信を根柢から覆した。
芸術の崩壊に対する責任だけは少くとも負ふ者が出てくれねば、気持ちの持つて行きどころがない。かういふ純な慨きを、この大貴族の一人も抱いて観てゐるのではないかといふ気がした。
だが見てゐる中に、この憂ひは次第に解消して行つた。太陽が思ひ設けぬ高さに到達してゐた。今度の帯屋を聞いてゐて、人情に拘泥しないで、人情に陥没する自在性を感じた。また亡くなつた土佐太夫晩年の自覚し過ぎた品位が伊達に出て来ないのは、却て幸福である。この人の持つてゐる安易と甘美とが今の若い世代のこの古典に対する無自覚を啓発する。竹の間はその意味で人を悦ばした。少掾の柄と研究慾を襲いだ綱太夫は一番の完成を信じてよい芸格を示した。あれだけの重忠に圧倒せられない阿古屋。しかもこのつやはどうだ。殊に胡弓の責めに入つてから、紋十郎の手すりと相触れる芸の深さ。相俟つて誠に「吉野立田の花紅葉よりも」芸の爛漫たる壮大性を示した。三曲の中これに重点を置いたのは、正確な解釈で、山城の伝統のよさを思はせた。亡き栄三は惜しんでも余りある人だが、これをあげる為に、文五郎をおとしたこれまでの傾向は宜しくない。
渋味が常に「花」より上にあるといふ鑑賞癖だけは更めねば、末代まで誤つた評価を伝へる虞れがある。
外側の激励と、内の反省とが、明らかによい効果を見せて来たのは人形だ。これならば、この時代の苦難を乗り越える事ができる。文五郎の足を紋十郎が使ふといつた美しい協力が、末々まで行き渡つてゐて、何の予備もない見物をも愉しませる事ができる。また、それが本道なのだ。何と言つても一等安じてよいのは、三味線であらう。だが新しい吉兵衛を出した様な美しい英断が常に行はれてよい。文楽も有望になつて来たが、何と言つても、少掾・文五郎・清六相携へての御殿といつた舞台は今後しばらく空白になる時期が来る。これを心ゆくまで愉しんでゐるのは、何だか若い世代にすまぬやうな気がした。



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