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雑感
ざっかん
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「時事新報」1946(昭和21)年3月9日〜15日
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2020-07-10 / 2020-06-28
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

一 へるまあの喜劇「人形の家」

久しぶりで又、「人形の家」が、町の話題に上つてゐる。松井須磨子の初演以来、今度が、幾度目になるのか、ちよつとには考へ浮ばぬ年月である。いつまでも素人抜けのせぬ様に言はれて来た新劇の人々も、随分鳥居の数は潜つて来てゐるのである。だから存外此戯曲なども、漠とした賑やかな印象ほどには、然ういろんな劇団で、とりあげて来て居なかつた様にも考へられる。何分新劇の興行年表も持たずに書く私だから、心細いものである。順序から言つて二度目ののらは、近代劇協会の衣川孔雀ではなかつたかしら――。あんまり「人形の家のおつかさん」と言ふのに適切過ぎる気のする無邪気なのらであつた記憶が深い。其と、も一つ久しい印象となつて居るのは、其時の日疋重亮のくろぐすたつとであつた。
須磨子ののらに対するくろぐすたつとは、島村抱月の解釈の為か、いつも敵役の性根で演出せられて居た様に思ふ。が、日疋のを見て、なるほどと腑におちた気がした。今はどうして居るか知らぬが、其頃の日疋は、若いに似合はず巧者で、其かはり随分ぢゞむさい役者だつた。而も、さう言ふ型の人が大成すると、必、這入る型の、芸の虫と謂はれさうな予感を起させる行き方をして居た。
日疋のくろぐすたつとだと、のらを威嚇して居る間に、ゐたけ高な感情をすつかり消磨し尽して、すご/\とひきとつて行く可哀さうな男になつてしまふのであつた。
年も若かつたし、教養と言つた所で、中学を完全にすましてゐたかどうか位で、藁店の俳優学校を出た程度だから、全く勘の優れた人だつたに相違ない。今度なども、見た人は感じたであらうが、全くあのいやな奴で、見物をしんみりさせたのは、日疋だけではなかつたかと思ふ。併しさう言ふ行き方が果して、正当なくろぐすたつとの性格かと言ふことになると、問題は亦自ら別になる。
くろぐすたつとが、其ほど生活内容を持つた男として演出せられると、のらやへるまあにあるべき重量の感じが、幾分か、そつちへ傾く訣になる。
舞台を幾つかの人生の交錯する所と見てよければ、真の意味の自然主義演劇になるのである。さうした企図が許されるものとすれば、中心が主役・副役――仮りにさう予想せられた――その他何れへ移動して行つても、さし支へがない筈である。だが技巧本位の戯曲や演劇では、主役以外に焦点を移すことは出来る訣がない。さう言ふ行き方からすれば、日疋の性根の掴み方は、確かに邪道である。だが近代劇には、理論としては正しく考へられてよい自然主義である。唯いぶせんの社会劇は、もつと技巧的なものであることが事実なのである。

一体……くろぐすたつとの出現その事が、如何にも敵役々々してゐる。が、此位の赤面は、歌舞妓芝居でなくとも、出て来るのに不思議はない。
却て日疋の表現や、其を感心した私などの見方が、歌舞妓の人情に囚はれてゐたので、社会劇――問題劇を解…

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