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玉手御前の恋
たまてごぜんのこい |
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作品ID | 47808 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 22」 中央公論社 1996(平成8)年12月10日 |
初出 | 「慶応義塾歌舞妓研究会講演」1947(昭和22)年6月12日<br>「演劇評論 第二巻第四号」1954(昭和29)年4月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 酒井和郎 |
公開 / 更新 | 2021-09-03 / 2021-08-28 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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一 戯曲に於ける類型の意義
……おもはゆげなる玉手御前。母様のおことばなれど、いかなる過去の因縁やら、俊徳様のおんことは、寝た間も忘れず恋ひこがれ、思ひあまつてうちつけに、言うても親子の道を立て、つれない返事堅い程尚いやまさる恋の淵。いつそ沈まばどこまでもと、跡を慕うてかちはだし蘆の浦々難波潟身を尽したる心根を不便と思うてとも/″\に、俊徳様のゆくへを尋ね、めをとにしてくださんすが、親のお慈悲と手を合せ、拝み廻れば、母親も今更あきれわが子の顔、唯うちまもるばかりなり。
「摂州合邦辻」の合邦住家の段のくどきの一番よい所、所謂さはりの所である。くどきとしては長い文句であつて、聞いてゐると、奥へ行く程、心をひかれて来る。詞章としては見られる通りの、何のへんてつもない文句なのである。でも幸福なことに、我々は浄瑠璃の節を聞き知つてゐるので、たゞ読んでも、記憶の中に、こゝのよさが甦つて来る。こればかりでなく、浄瑠璃の文句は一体に、皆さうだと言へる。名高いさはりのところも、文句ばかりを見ると、案外何のとりえもないものが多い。特に美しくも何ともない文句に、太夫や三味線弾きが節をつける前のあるかんで、何もない所からある節を摸索して来る。節づけの面白さは、こゝに発現する。与へられた文学の中から、特殊なものを引き出して来る。即、音楽でもつて、新しいものを創り出して来る訣である。――さう言ふ場合ばかりでは、勿論類型を辿つて、前の行き方をなぞると言ふ方が、多いのであらうが――。それと同じ様な事が、浄瑠璃の作者の場合にもある。一体浄瑠璃作者などは、唯ひとり近松は別であるが、あとは誰も彼も、さのみ高い才能を持つた人とは思はれぬのが多い。人がらの事は、一口に言つてはわるいが、教養については、どう見てもありさうでない。中には寧、軽蔑したくなるやうな行状の人も多かつたらうと思はれる。
さう言ふ連衆が、段々書いてゐる中に、珍しい事件を書きあげ、更に、非常に戯曲的に効果の深い性格を発見して来る。論より証拠、此合邦の作者など、菅専助にしても、若竹笛躬にしても、凡庸きはまる作者で、熟練だけで書いてゐる、何のとりえもない作者だが、しかもこの浄瑠璃で、玉手御前と言ふ人の性格をこれ程に書いてゐる。前の段のあたりまでは、まだごく平凡な性格しか書けてゐないのに、此段へ来て、俄然として玉手御前の性格が昇つて来る。此は、凡庸の人にでも、文学の魂が憑いて来ると言つたらよいのだらうか。
併し事実はさう神秘的に考へる事はない。平凡に言ふと、浄瑠璃作者の戯曲を書く態度は、類型を重ねて行く事であつた。彼等が出来る最正しい態度は、類型の上に類型を積んで行く事であつた。我々から言へば、最いけない態度であると思つてゐる事であるのに、彼等は、昔の人の書いた型の上に、自分達の書くものを、重ねて行つた。それが彼等の文章道に於ける道徳で…