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手習鑑雑談
てならいかがみざつだん
作品ID47812
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「日本演劇 第五巻第七号」1947(昭和22)年10月
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2021-05-09 / 2021-04-28
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

私どもの、青年時代には、歌舞妓芝居を見ると言ふ事は、恥しい事であつた。つまり、芝居は紳士の見るべきものではなかつた。だから今以て、私には、若い友人たちの様に、朗らかな気持ちで、芝居の話をする事が出来ない。私の芝居に就いての知識は、謂はゞ不良少年が、店の銭函からくすねて貯めた金の様な知識で、理くつから言へば何でもないことだが、どうもうしろめたい。どうも私の話につきまとふ卑下慢式なものを嗤つて下さい。
此は芝居に限らないが、一番問題になるのは、作者が作中の人物の中の誰に、一番愛著を持つてゐるか、と言ふ事だ。近松は、作中の人物に、愛情を美しく傾けてゐる。近松以後にはそれがない。愛情はあつても、どうも器械的な気がしてならぬ。さすがに第一流の文学者だけあつて、其を持つてゐるから、近松のものを読むと、深いやすらひを感じる。
近松以後、舞台技巧は格段に進んでゐる。舞台に出てゐる人や人形は知らないで、様々の葛藤や煩悶を重ねてゐるが、見物人は知つてはら/\してゐる、と言ふ様なとりつくめいた技巧を用ゐはじめた。近松から大内裏大友真鳥か何かで、とりつくの骨を授けられたと伝へのある、竹田出雲が、うんと技巧は秀れてゐる。さう言ふ点ばかりから言ふと、近松に優れた作者は幾人もゐる。それを思ふと近松は結局詞章が巧なと言ふ所に帰する。さう言ふ風な判断を、今までして来てゐた。併し、この年になつて、安心を感じる様になつた。戯曲殊に、浄瑠璃の構成よりも其を乗り越して、大事なものがある。即、作者の愛情が一貫して現れて来ることが、もつと必要なのであると言ふことに気がついた。
今日では、新劇の人達も、祖先の遺産として、歌舞妓を賞めてゐるが、それがもし、舞台技巧などに関して賞めてゐるのだつたら、それは間違ひだ。
さう言ふとりつくめいたものばかりを、人形芝居の作者の舞台技巧といつては、気の毒である。もつと劇の根本構成にも、なか/\いりくんだものを案出して、後々に遺産として残してゐる。だが、如何にも、其が「技巧々々して」ゐる限りは、浅まな気がする。手習鑑は勿論、さう言ふ技巧が可なり進んでゐて、とりつくらしいものも、浅まな感じは少いだけ、破綻を見せることも少く行つてゐる。併し、此作は舞台技巧に重点をおいてばかり見るべき作ではない。其だけやはり真実性は相当にあるのである。

手習鑑も、今ですら、道明寺や賀の祝は、見てゐて、役者不足がしみ/″\感じられるのである。まして、今度の座ぐみが出来るまでに、菊五郎が梅王・松王・桜丸を一人でしようといつて、人々の気をわるくさせたと言ふ噂が新聞に出てゐた。菊五郎は兼ねる意識を持ち、其を見物の頭に印象したがる熱意を持つてゐるやうな伝へが多く世間へ洩れる。そんなことはないかも知れぬが、又ありさうな気もさせられる。まあ此上、真女形に上成績なものを幾つかしあげてからだ、と世間自らさう認…

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