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手習鑑評判記
てならいかがみひょうばんき |
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作品ID | 47813 |
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著者 | 折口 信夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「折口信夫全集 22」 中央公論社 1996(平成8)年12月10日 |
初出 | 「スクリーン・ステージ 第一号」1947(昭和22)年6月20日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 酒井和郎 |
公開 / 更新 | 2020-10-03 / 2020-09-28 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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その写実主義が、意外に強靭であり、理論的に徹したところのあるものだといふことを、こんどの幸四郎の舞台に見て、しみ/″\快く感じた。日本の自然派のまだ現れなかつた明治三十年前半の写実主義時代から、ともかくこれを貫いて来たのは、この人だけであらう。そのことが、喜寿の賀を舞台の「白太夫」とともに受ける今日になつても、彼の芸の自由を奪ひ、空想を失はせ、何処か完成感の足らぬものにしてゐる理由だとする考へに変りはないが、ともかくも指導者団十郎亡き後、これで今におしとほしてゐることを思へば、一見必然性の乏しい彼の芸に、理論がついて来るわけである。かれの写実主義の自由な発露を、日本の興行舞台が、常に拒んで来たための未完成の大きな偶像に対する心で、幸四郎を改めて熟視した。
だが事実はやはり写実欲を棄てたと見える「撞木刀」のくだりがよかつたし、伝授・道明寺二場の菅相丞を通じて、前後の「身替天神」の件が優れてゐた。これこそ近代「無双の天神」といふことが出来よう。幸四郎ももう、常識的な技巧を超越する時が来たのである。
伊予染めの胴に夢のやうな藤紫の肩当て、暖簾を分けて立つた桜丸の姿――これが菊五郎かと思ふほど、うちけぶる風情があつた。落入りまでまことに行儀正しい桜丸だつた。その点若手役者たちの指標たるべきものである。たゞおれだから、この限界まで行く、若い者には危いといふやうな指導意識を、後続者に対して、このごろ頻りに示す傾きが見えるのはよくない。たとへば八重――梅幸役――の為処を外させ、「きつぱり」するところを避けさせたりするのは、どうしたものだ。新梅幸は未熟であつても、それほど愚昧な質でないことは、彼自身知つてゐる筈だ。門口に立つた八重が、納戸口を見返つて、夫を発見した驚き――これを驚きらしく表すことを避けさせてゐるやうである。切腹の間、その夫に対する纏綿する愛惜を、肉体を以て示す動作すらちつとも顕されることがなかつた。これも彼の指導に出たものと見る外はない。じやらつき過ぎるなど、まさか考へてゐるのでもなからうが、さうだつたら、彼が此までよい八重を見てゐないといふことになる。まだ息子には出来ないといふのだつたら、放胆なる親獅子よ、子獅子は谷に蹶落されるのを待つてゐると注意したい。
松王は正に完成品。但、解釈になほ行き違ひが固執せられてゐる。彼はいふだらう。「何が面白くて明るい顔をするのだ」と。だが一幕「鬱々たる松王丸」で為とほすのは、菊五郎などが変改してよい時代なのではないか。病気と言ふ擬態を守るのだといふ通念もよくなかつたのだ。立者の故意に粧ふ物々しさや、安易な解釈から脱け出して、もつと明快な松王に還る気はないか。素人の臆面ない諫言を菊五郎が聴くなら、今更めて真女形修業に入つて貰ひたいと思ふ。輝国の白く塗つた豊満な肉躰は、彼自身を若女形や女芝居の幻想に陥れる。私は真の「兼番附」…