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役者の一生
やくしゃのいっしょう
著者折口 信夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「折口信夫全集 22」 中央公論社
1996(平成8)年12月10日
初出「渋谷文学 第十八巻第二号」1942(昭和17)年12月
入力者門田裕志
校正者酒井和郎
公開 / 更新2019-04-20 / 2019-03-29
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



沢村源之助の亡くなつたのは昭和十一年の四月であつたと思ふ。それから丁度一年経つて木村富子さんの「花影流水」といふ書物が出た。木村富子さん、即、錦花氏夫人は今の源之助の継母かに当る人であるから、よい書物の筈である。此には「演芸画報」に載つた源之助晩年の芸談なる「青岳夜話」を其儘載せてある。これには又、彼の写真として意味のあるのを相当に択んで出してゐる。成程、源之助は写真にうつるのが上手であつた。と言ふのは彼の姉が――縁のつゞき合ひは知らぬが、日本の写真商売にとつては、大先輩だつた――伊井蓉峰の父親の北庭筑波の門に入つて写真を習ひ、新富町に塙芳野といふ名で、写真屋を営んでゐた。さういふ関係で源之助は写真のぽうずを自分で取ることが得意だつたのである。
河合武雄が最近亡くなつたので、これで河合の芸風も消えるであらうが、この人は源之助の芸の正統を新派畠に打ちこんで継いだ形になる人である。父親は地位は低かつたが、源之助とよく一座した大谷馬十である。河合は若い時旧派の役者にならうとして(外の事情は知らぬ)大阪に奔り、その前後大凡源之助の影響を受けて了つた。河合の動きや、きまり方には、晩年迄源之助の気合ひの入れ方が働いてゐた。ともあれ源之助の格を一番正面から取つてゐたのは、河合であつただけに、源之助が死に、河合がこの世を去つた今日、源之助の芸風の絶えて了ふだらうと言ふことがしみ/″\感じられる。
源之助の時代は四十年位続いたが、その間悪婆即、一口に言ふと――毒婦ものが彼の芸として通つた。あゝいふ芸は模倣し易い訣だが、どういふ訣か、此きりで無くなり相だ。源之助の名を継いだ五代目はまだ若いし、先代市川松蔦よりは融通はきくが、まだその年にも達してゐない。器量はもつと、あれを悪くした顔で、悪婆ものには、第一条件が欠けてゐる。悪婆は背が高くなくても、さう見える姿で、顔が美しく、声の調子のよい、まともに行けば、江戸の下町女房を役どころとする風格を持つてゐなければならぬ。
次に源之助の芸はどこから来てゐるのだらう。第一は五代目菊五郎から出てゐる。菊五郎は立役の方でも源之助に影響を与へてゐるが、女形の方の影響を殊に多く与へた。芸の固まる時分に一番菊五郎の相手もしたし、芸に触れた為である。処で、菊五郎の方は、女形の芸は誰からとつたかといふと、それは沢村田之助だらう。田之助の舞台をよく観察してゐて、それをよく補正した人である。一体尾上家は江戸へ来た始めから、上方の女形として下つた家柄である。五代目が田之助或は先輩の岩井半四郎などの芸をよく見てゐたのは、尾上家の伝統を正しく襲ぐ者であつた。一つには、九代目団十郎に対抗する為には、団十郎の為難い所に出ねばならぬといふ事情があつた。団十郎は、女形にはまづ極度に不向きであつたからである。
源之助は生涯自分の持つて生れた容貌や才能に頼み過ぎて、血の…

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