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写生帖の思ひ出
しゃせいちょうのおもいで |
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作品ID | 47981 |
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著者 | 上村 松園 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「青眉抄その後」 求龍堂 1986(昭和61)年1月15日 |
初出 | 「絵と随筆」塔影社、1932(昭和7)年 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2008-07-09 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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いつからとなく描きためかきためした写生帖が、今は何百冊と云ふ数に上つてゐる。一冊の写生帖には、雑然として写生も縮図も前後なく描き込んである。が、さうしたものを時折繰りひろげてみると、思ひ掛けもない写生や縮図が見付かつて、忘れた昔を思ひ出したり、褪め掛けた記憶を新にしたりする事がある。私の為めには、古い新しい写生帖が懐かしい絵日記となつて居る。
私の絵日記の一番古いのは十三位の幼い頃から始まつてゐる。見るにも堪へない程拙ない筆の跡ではあるが、しかしそこには絵を習ひ覚えた頃の幼い思ひ出がにじみ出てゐて、限りもなく愛着させられる。私の覚束ない筆の写生や模写と並んで、達者な線の絵があると思つて見ると、夫れは松年先生の絵で、日出新聞[#挿絵]絵の筆法に傚ふとか云ふ文句が、矢張り先生の筆跡で傍書してあつたりする。
松年先生はよく私に墨を磨らせた。墨は男がすると荒つぽくていかぬが、女の子が磨るとこまかでいいと言はれて、よく私は墨すりをやらされた。大きな机の上に置洋灯があつて、其側の棚にグルグル巻きにした描きさしの絵があつた。先生は夫れを一枚一枚とりだしては筆を加へられた。恁ふ左の手を懐中にしてサツサツと筆を動かされる。或る程度迄描き進めてはクルクルと巻いてポイと側に抛り、又次の絵を伸べる。さうした事が毎晩の事だつた。
そんな絵を私達はよく模写したものだつた。月に一回十五日に研究会があり、春四月と秋十月には大会があつた。会場は円山の牡丹畑で、其[#挿絵]時はいつも百年先生の塾と合併で、塾の先輩達がズラツと並んで席上をやつた。時には矢張り鈴木派の人達ばかりで演説会があつた。斎藤松洲とか天野松雲とか云ふ達者な人達が先頭に立つて、美術の将来だとか杖は失ふべからずなどと云ふ演題で口角泡を飛ばしてゐた。
自画像と云つては恐らく此十六歳の時の丈けより無いだらうが、鏡を見ては描き見ては描きした事を思ひ出す。洗ひ髪のと笑つたのと此三枚が一ヶ処に描かれてゐる。
其頃の着物は皆素味だつた。十三、四の頃の着物が残つてゐて、此年になつても私は時折着るが、夫れでちつとも可笑しいと思へない。夫れ程昔は素味なものが流行つた。髪は蝶々だが前髪を小さくとつて、襟には黒繻子が掛つてる。恁ふした風は其頃の町の娘さん達一般の風俗だつた。着物が素味だつた割に、帯は赤の玉乗り友禅や麻の鹿の子などはんなりしてゐた。
少しハイカラな娘さんは束髪を結つた。江戸ツ子に前を割つて後ろで円く三ツ組にし網をかぶせたりした。色毛糸で編んだシヤツを着たりしてゐる人もあつた。
髷は蝶々が一番普通で、少し若い人達だと前髪を切つて下げてる人もあつた。も少し若い人達には福髷が流行り、七、八つから十一、二迄の娘さんはお稚子髷に結つてゐた。
松年先生の塾には女のお弟子が数人ゐたが、其内私は中井楳園さんと一番親しくしてゐた。香[…