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硝子窓
がらすまど
作品ID48157
著者石川 啄木
文字遣い旧字旧仮名
底本 「啄木全集 第十卷」 岩波書店
1961(昭和36)年8月10日
初出「新小説 十五ノ六」1910(明治43)年6月
入力者蒋龍
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-09-08 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     ○

『何か面白い事は無いかねえ。』といふ言葉は不吉な言葉だ。此二三年來、文學の事にたづさはつてゐる若い人達から、私は何囘この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも言つた。――或時は、人の顏さへ見れば、さう言はずにゐられない樣な氣がする事もあつた。
『何か面白い事は無いかねえ。』
『無いねえ。』
『無いねえ。』
 さう言つて了つて口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な氣持が滓の樣に殘る。恰度何か拙い物を食つた後の樣だ。そして其の後では、もう如何な話も何時もの樣に興を引かない。好きな煙草さへ甘いとも思はずに吸つてゐる事が多い。
 時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何處かへ行きたくつても、何處といふ行くべき的が無い。世界の何處かには何か非常な事がありそうで、そしてそれと自分とは何時まで經つても關係が無ささうに思はれる。しまひには、的もなくほつつき[#挿絵]つて疲れた足が、遣場の無い心を運んで、再び家へ歸つて來る事になる。――まるで、自分で自分の生命を持餘してゐるやうなものだ。
 何か面白い事は無いか!
 それは凡ての人間の心に流れてゐる深い浪漫主義の嘆聲だ。――さう言へば、さうに違ひない。然しさう思つたからとて、我々が自分の生命の中に見出した空虚の感が、少しでも減ずる譯ではない。私はもう、益の無い自己の解剖と批評にはつくづくと飽きて了つた。それだけ私の考へは、實際上の問題に頭を下げて了つた。――若しも言ふならば、何時しか私は、自分自身の問題を何處までも机の上で取扱つて行かうとする時代の傾向――知識ある人達の歩いてゐる道から、一人離れて了つた。
『何か面白い事は無いか。』さう言つて街々を的もなく探し[#挿絵]る代りに、私はこれから、『何うしたら面白くなるだらう。』といふ事を、眞面目に考へて見たいと思ふ。

     ○

 何時だつたか忘れた。詩を作つてゐる友人の一人が來て、こんな事を言つた。――二三日前に、田舍で銀行業をやつてゐる伯父が出て來て、お前は今何をしてゐると言ふ。困つて了つて、何も爲ないでゐると言ふと、學校を出てから今迄何も爲ないでゐた筈がない、何んな事でも可いから隱さずに言つて見ろと言つた。爲方が無いから、自分の書いた物の載つてゐる雜誌を出して見せると、『お前はこんな事もやるのか。然しこれはこれだが、何か別に本當の仕事があるだらう。』と言つた。――
『あんな種類の人間に逢つちや耐らないねえ。僕は實際弱つちやつた。何とも返事の爲やうが無いんだもの。』と言つて、其友人は聲高く笑つた。
 私も笑つた。所謂俗人と文學者との間の間隔といふ事が其の時二人の心にあつた。
 同じ樣な經驗を、嘗て、私も幾度となく積んだ。然し私は、自分自身の事に就いては笑ふ事が出來なかつた。それを人に言ふ事も好まなかつた。自分の爲事を人の前に言へぬといふ事…

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