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夫人利生記
ぶにんりしょうき
作品ID48333
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「泉鏡花集成8」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年5月23日第1刷
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-11-25 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 瑠璃色に澄んだ中空の樹の間から、竜が円い口を張開いたような、釣鐘の影の裡で、密と、美麗な婦の――人妻の――写真を視た時に、樹島は血が冷えるように悚然とした。……
 山の根から湧いて流るる、ちょろちょろ水が、ちょうどここで堰を落ちて、湛えた底に、上の鐘楼の影が映るので、釣鐘の清水と言うのである。
 町も場末の、細い道を、たらたらと下りて、ずッと低い処から、また山に向って径の坂を蜒って上る。その窪地に当るので、浅いが谷底になっている。一方はその鐘楼を高く乗せた丘の崖で、もう秋の末ながら雑樹が茂って、からからと乾いた葉の中から、昼の月も、鐘の星も映りそうだが、別に札を建てるほどの名所でもない。
 居まわりの、板屋、藁屋の人たちが、大根も洗えば、菜も洗う。葱の枯葉を掻分けて、洗濯などするのである。で、竹の筧を山笹の根に掛けて、流の落口の外に、小さな滝を仕掛けてある。汲んで飲むものはこれを飲むがよし、視めるものは、観るがよし、すなわち清水の名聞が立つ。
 径を挟んで、水に臨んだ一方は、人の小家の背戸畠で、大根も葱も植えた。竹のまばら垣に藤豆の花の紫がほかほかと咲いて、そこらをスラスラと飛交わす紅蜻蛉の羽から、……いや、その羽に乗って、糸遊、陽炎という光ある幻影が、春の闌なるごとく、浮いて遊ぶ。……
 一時間ばかり前の事。――樹島は背戸畑の崩れた、この日当りの土手に腰を掛けて憩いつつ、――いま言う――その写真のぬしを正のもので見たのである。

 その前に、渠は母の実家の檀那寺なる、この辺の寺に墓詣した。
 俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安置した右左の像が丹であるから、いずれにも通じて呼ぶのであろう。住職も智識の聞えがあって、寺は名高い。
 仁王門の柱に、大草鞋が――中には立った大人の胸ぐらいなのがある――重って、稲束の木乃伊のように掛っている事は、渠が小児の時に見知ったのも、今もかわりはない。緒に結んだ状に、小菊まじりに、俗に坊さん花というのを挿して供えたのが――あやめ草あしに結ばむ――「奥の細道」の趣があって、健なる神の、草鞋を飾る花たばと見ゆるまで、日に輝きつつも、何となく旅情を催させて、故郷なれば可懐しさも身に沁みる。
 峰の松風が遠く静に聞えた。
 庫裡に音信れて、お墓経をと頼むと、気軽に取次がれた住職が、納所とも小僧ともいわず、すぐに下駄ばきで卵塔場へ出向わるる。
 かあかあと、鴉が鳴く。……墓所は日陰である。苔に惑い、露に辷って、樹島がやや慌しかったのは、余り身軽に和尚どのが、すぐに先へ立って出られたので、十八九年不沙汰した、塔婆の中の草径を、志す石碑に迷ったからであった。
 紫袱紗の輪鉦を片手に、
「誰方の墓であらっしゃるかの。」
 少々極が悪く、……姓を言うと、
「おお、いま立っていさっしゃるのが、それじゃがの。」
「御不沙汰をいたして済…

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