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二世の契
にせのちぎり |
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作品ID | 48409 |
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著者 | 泉 鏡花 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成1 泉鏡花」 国書刊行会 1991(平成3)年3月25日 |
初出 | 「新小説」1903(明治36)年1月 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2009-05-31 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
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一
真中に一棟、小さき屋根の、恰も朝凪の海に難破船の俤のやう、且つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此の広野を、久しい以前汽車が横切つた、其の時分の停車場の名残である。
路も纔に通ずるばかり、枯れても未だ葎の結ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨を透かして、遠く其の寂しい状を視めながら、
「もし、お媼さん、彼処までは何のくらゐあります。」
と尋ねたのは効々しい猟装束。顔容勝れて清らかな少年で、土間へ草鞋穿の脚を投げて、英国政府が王冠章の刻印打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔は星の如きを、斜に古畳の上に差置いたが、恁う聞く中に、其の鳥打帽を掻取ると、雫するほど額髪の黒く軟かに濡れたのを、幾度も払ひつゝ、太く野路の雨に悩んだ風情。
縁側もない破屋の、横に長いのを二室にした、古び曲んだ柱の根に、齢七十路に余る一人の媼、糸を繰つて車をぶう/\、静にぶう/\。
「然うぢやの、もの十七八町もござらうぞ、さし渡しにしては沢山もござるまいが、人の歩行く路は廻り廻り蜒つて居るで、半里の余もござりましよ。」と首を引込め、又揺出すやうにして、旧停車場の方を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、恁うやつて遠方のものに摺りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。
それから顔を上げ下しをする度に、恒は何処にか蔵して置くらしい、がツくり窪んだ胸を、伸し且つ竦めるのであつた。
素直に伸びたのを其のまゝ撫でつけた白髪の其よりも、尚多いのは膚の皺で、就中最も深く刻まれたのが、脊を低く、丁ど糸車を前に、枯野の末に、埴生の小屋など引くるめた置物同然に媼を畳み込んで置くのらしい。一度胸を伸して後へ反るやうにした今の様子で見れば、瘠せさらぼうた脊丈、此の齢にしては些と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細いのがある背戸の榛の樹立の他に、珍しい枯木に見えよう。肉は干び、皮萎びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗さ、渋色に亀裂が入つて下塗の漆で固めたやう、未だ/\目立つのは鼻筋の判然と通つて居る顔備と。
黒ずんだが鬱金の裏の附いた、はぎ/\の、之はまた美しい、褪せては居るが色々、浅葱の麻の葉、鹿子の緋、国の習で百軒から切一ツづゝ集めて継ぎ合す処がある、其のちやん/\を着て、前帯で坐つた形で。
彼の古戦場を過つて、矢叫の音を風に聞き、浅茅が原の月影に、古の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼が六十年の昔を推して、世にも希なる、容色よき上[#挿絵]としても差支はないと思ふ、何となく犯し難き品位があつた。其の尖つた顋のあたりを、すら/\と靡いて通る、綿の筋の幽に白きさへ、やがて霜になりさうな冷い雨。
少年は炉の上へ両手を真直に翳し、斜に媼の胸のあたりを窺うて、
「はあ其では、何か、他に通るものがあるんですか。」
媼は見返りもしないで、真向正面に渺々たる荒野を…