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鴎外博士の追憶
おうがいはかせのついおく |
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作品ID | 49566 |
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著者 | 内田 魯庵 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「新編 思い出す人々」 岩波文庫、岩波書店 1994(平成6)年2月16日 |
初出 | 「明星」1922(大正11)年8月号 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2011-07-14 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 19 ページ(500字/頁で計算) |
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若い蘇峰の『国民之友』が思想壇の檜舞台として今の『中央公論』や『改造』よりも重視された頃、春秋二李の特別附録は当時の大家の顔見世狂言として盛んに評判されたもんだ。その第一回は美妙の裸蝴蝶で大分前受けがしたが、第二回の『於母影』は珠玉を満盛した和歌漢詩新体韻文の聚宝盆で、口先きの変った、丁度果実の盛籠を見るような色彩美と清新味で人気を沸騰さした。S・S・Sとは如何なる人だろう、と、未知の署名者の謎がいよいよ読者の好奇心を惹起した。暫らくしてS・S・Sというは一人の名でなくて、赤門の若い才人の盟社たる新声社の羅馬字綴りの冠字で、軍医森林太郎が頭目であると知られた。
鴎外は早熟であった。当時の文壇の唯一舞台であった『読売新聞』の投書欄に「蛙の説」というを寄稿したのはマダ東校(今の医科大学)に入学したばかりであった。当時の大学は草創時代で、今の中学卒業程度のものを収容した。殊に鴎外は早熟で、年齢を早めて入学したからマダ全くの少年だった。が、少年の筆らしくない該博の識見に驚嘆した読売の編輯局は必ずや世に聞ゆる知名の学者の覆面か、あるいは隠れたる篤学であろうと想像し、敬意を表しかたがた今後の寄書をも仰ぐべく特に社員を鴎外の仮寓に伺候せしめた。ところが社員は恐る恐る刺を通じて早速部屋に通され、粛々如として恭やしく控えてると、やがてチョコチョコと現われたは少くも口髯ぐらい生やしてる相当年配の紳士と思いの外なる極めて無邪気な紅顔の美少年で、「私が森です」と挨拶された時は読売記者は呆気に取られて、暫らくは開いた口が塞がらなかったという逸事がある。(この咄は桜木町時代に鴎外自身の口から直接に聴いたのである。)
鴎外は幼時神童といわれたそうだ。虚実は知らぬが、「十ウで神童、ハタチで才子、二十以上はタダの人というお約束通り、森の子も行末はタダの人サ、」と郷人の蔭口するのを洩れ聞いて発憤して益々力学したという説がある。左に右く天禀の才能に加えて力学衆に超え、早くから頭角を出した。万延元年の生れというは大学に入る時の年齢が足りないために戸籍を作り更えたので実は文久二年であるそうだ。「蛙の説」を『読売』へ寄書したのは大学在学時代で、それから以来も折々新聞に投書したというから、一部には既に名を認められていたろうが、洽く世間に知られたのは『国民之友』のS・S・Sからである。
S・S・Sの名が世間を騒がした翌る年、タシカ明治二十三年の桜の花の散った頃だった。谷中から上野を抜けて東照宮の下へ差掛った夕暮、偶っと森林太郎という人の家はこの辺だナと思って、何心となく花園町を軒別門札を見て歩くと忽ち見附けた。出来心で名刺を通じて案内を請うと、暫らくして夫人らしい方が出て来られて、「ドウいう御用ですか?」
何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るも…