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斎藤緑雨
さいとうりょくう
作品ID49569
著者内田 魯庵
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 思い出す人々」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日
初出「現代」1913(大正2)年4月号
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-14 / 2014-09-16
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「僕は、本月本日を以て目出たく死去仕候」という死亡の自家広告を出したのは斎藤緑雨が一生のお別れの皮肉というよりも江戸ッ子作者の最後のシャレの吐きじまいをしたので、化政度戯作文学のラスト・スパークである。緑雨以後真の江戸ッ子文学は絶えてしまった。
 紅葉も江戸ッ子作者の流れを汲んだが、紅葉は平民の子であっても山の手の士族町に育って大学の空気を吸った。緑雨は士族の家に生れたが、下町に育って江戸の気分にヨリ多く浸っていた。緑雨の最後の死亡自家広告は三馬や一九やその他の江戸作者の死生を茶にした辞世と共通する江戸ッ子作者特有のシャレであって、緑雨は死の瞬間までもイイ気持になって江戸の戯作者の浮世三分五厘の人生観を歌っていたのだ。
 この緑雨の死亡自家広告と旅順の軍神広瀬中佐の海軍葬広告と相隣りしていたというはその後聞いた咄であるが、これこそ真に何たる偶然の皮肉であろう。緑雨は恐らく最後のシャレの吐き栄えをしたのを満足して、眼と唇辺に会心の“Sneer”を泛べて苔下にニヤリと脂下ったろう。「死んでまでも『今なるぞ』節の英雄と同列したるは歌曲を生命とする緑雨一代の面目に候」とでも冥土から端書が来る処だった。
 緑雨の眼と唇辺に泛べる“Sneer”の表情は天下一品であった。能く見ると余り好い男振ではなかったが、この“Sneer”が髯のない細面に漲ると俄に活き活きと引立って来て、人に由ては小憎らしくも思い、気障にも見えたろうが、緑雨の千両は実にこの“Sneer”であった。ドチラかというと寡言の方で、眼と唇辺に冷やかな微笑を寄せつつ黙して人の饒舌を聞き、時々低い沈着いた透徹るような声でプツリと止めを刺すような警句を吐いてはニヤリと笑った。
 緑雨の随筆、例えば『おぼえ帳』というようなものを見ると、警句の連発に一々感服するに遑あらずだが、緑雨と話していると、こういう警句が得意の“Sneer”と共にしばしば突発した。我々鈍漢が千言万言列べても要領を尽せない事を緑雨はただ一言で窮処に命中するような警句を吐いた。警句は天才の最も得意とする武器であって、オスカー・ワイルドもメーターランクも人気の半ばは警句の力である。蘇峰も漱石も芥川龍之介も頗る巧妙な警句の製造家である。が、緑雨のスッキリした骨と皮の身体つき、ギロリとした眼つき、絶間ない唇辺の薄笑い、惣てが警句に調和していた。何の事はない、緑雨の風[#挿絵]、人品、音声、表情など一切がメスのように鋭どいキビキビした緑雨の警句そのままの具象化であった。
 私が緑雨を知ったのは明治二十三年の夏、或る温泉地に遊んでいた時、突然緑雨から手紙を請取ったのが初めてであった。尤もその頃専ら称していた正直正太夫の名は二十二年ごろ緑雨が初めてその名で発表した「小説八宗」以来知っていた。(この「小説八宗」は『雨蛙』の巻尾に載っておる。)それ故、この皮肉を売物…

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