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二葉亭四迷
ふたばていしめい
作品ID49572
副題――遺稿を整理して――
――いこうをせいりして――
著者内田 魯庵
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 思い出す人々」 岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年2月16日
初出「太陽」1913(大正2)年9月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-20 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 二葉亭四迷の全集が完結してその追悼会が故人の友人に由て開かれたについて、全集編纂者の一人としてその遺編を整理した我らは今更に感慨の念に堪えない。二葉亭が一生自ら「文人に非ず」と称したについてはその内容の意味は種々あろうが、要するに、「文学には常に必ず多少の遊戯分子を伴うゆえに文学ではドウシテも死身になれない」と或る席上で故人自ら明言したのがその有力なる理由の一つであろう。が、文学には果して常に必ず遊戯的分子を伴うものであろう乎。およそ文学に限らず、如何なる職業でも学術でも既に興味を以て従う以上はソコに必ず快楽を伴う。この快楽を目して遊戯的分子というならば、発明家の苦辛にも政治家の経営にもまた必ず若干の遊戯的分子を存するはずで、国事に奔走する憂国の志士の心事も――無論少数の除外はあるが――後世の伝記家が痛烈なる文字を陳ねて形容する如き朝から晩まで真剣勝負のマジメなものではないであろう。あるいはまた真剣勝負であってもこの真剣勝負が一つの快楽であって、その中に必ず多少の遊戯的分子を含んでおるだろう。
 が、二葉亭のいうのは恐らくこの意味ではないので、二葉亭は能く西欧文人の生涯、殊に露国の真率かつ痛烈なる文人生涯に熟していたが、それ以上に東洋の軽浮な、空虚な、ヴォラプチュアスな、廃頽した文学を能く知りかつその気分に襯染していた。一言すれば二葉亭は能く外国思想に熟していたが、同時にやはり幼時から染込んだ東洋思想を全く擺脱する事が出来ないで、この相背馳した二つの思想の※着[#「足へん+堂」、U+8E5A、144-5]が常に頭脳に絶えなかったであろう。二葉亭が遊戯分子というは西鶴や其蹟、三馬や京伝の文学ばかりを指すのではない、支那の屈原や司馬長卿、降って六朝は本より唐宋以下の内容の空虚な、貧弱な、美くしい文字ばかりを聯べた文学に慊らなかった。それ故に外国文学に対してもまた、十分渠らの文学に従う意味を理解しつつもなお、東洋文芸に対する先入の不満が累をなしてこの同じ見方からして、その晩年にあってはかつて随喜したツルゲーネフをも詩人の空想と軽侮し、トルストイの如きは老人の寝言だと嘲っていた。独り他人を軽侮し冷笑するのみならず、この東洋文人を一串する通弊に自ずから襯染していた自家の文学的態度をも危ぶみかつ飽足らず思うて而して「文学には必ず遊戯的分子がある、文学ではドウシテモ死身になれない」という。近代思想を十分理解しながら近代人になり切れない二葉亭の葛藤は必ず爰にも在ったろう。
 二葉亭に限らず、総て我々年輩のものは誰でも児供の時から吹込まれた儒教思想が何時まで経っても頭脳の隅のドコかにこびり着いていて容易に抜け切れないものだ。坪内博士がイブセンにもショオにもストリンドベルヒにも如何なるものにも少しも影響されないで益々自家の塁を固うするはやはり同じ性質の思想が累をなすのである。…

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