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作品ID49734
著者上村 松園
文字遣い新字新仮名
底本 「青帛の仙女」 同朋舎出版
1996(平成8)年4月5日
初出「開智」1940(昭和15)年6月
入力者川山隆
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2009-06-13 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は明治八年四月二十三日四条通り御幸町西へ行った所に生まれました。父はこの年の二月既に歿して、私は二十六歳の母の胎内で父の弔いを見送りました。
 明治十五年四月、八つで小学校六級に入学しました。草履袋をさげ石盤と石筆を風呂敷に包んで通学したものでした。
 その頃習ったものは修礼(お作法)手芸が主なものでした。私は絵が好きで、いつも石盤に美人画を描きましたので、誰も彼も私にもと言って描くのを頼まれました。
 受持は中島眞義先生で、なかなか子供の信頼がありました。先生に習うというと皆が手を打って喜んだものでした。ある年先生から、煙草盆を描きなさいと言いつけられ、それを祇園有楽館の展覧会に出品して賞に硯を頂いた事を覚えています。その硯は永年使用していましたが、もう金文字入の賞の字も磨滅して分らなくなってしまいました。
 母はなかなか読書が好きでいつも貸本屋から借りた本が置いてありましたので、自然私もそれを読みました。
 又綴り本を積んで家をこしらえ、作ったおやまさんを立てかけてお飾りをするのが唯一の遊びごとでした。
 ところが父の始めました葉茶屋の商売を引きつづき背負って立とうとした母に、親類から種々の忠言がありました。然し母は父の始めた商売ではあり、石にかじりついても親子三人でやってゆきますと言って八つになる姉と三人で敢然と立ち上りました。
 小さい時分から絵を描くのが一番の楽しみでした。四条御幸町の角に吉勘と言って錦絵の木版画や白描を売っている店がありましたが、使い走りをした時などここで絵を買うて貰うのが一番好きなお駄賃でした。
 また四条通りに出る夜店をひやかして、古絵本を見つけると、母の腕にぶら下ってせがみ財布の紐をほどいて貰ったこともありました。私は子供の時分から人の髪を結う事が好きで近所の子供を呼んできては、お煙草盆や、ひっつけ髪や、ひっくくりの雀びんやらを結うて、つまり子供達をモデルに髪形の研究をしていました。
 私が絵を習い始めた頃は、女が絵を習うと言うのは一般に不思議がる頃でした。十四の年に親類の承知しない画学校へ入学さして貰ったのです。
 私の師匠は鈴木松年先生が最初で、人物を習い、次に幸野楳嶺先生に花鳥を習い、次に竹内栖鳳先生に師事しました。また十九の頃漢学も習い始めました。その時分の京都では狩野派や四条派の花鳥山水が全盛で、人物画の参考が全然ありませんでした。そこで参考品を探すのに非常に苦心をしました。博物館に行ったり、神社仏閣に風俗の絵巻物があると聞いては紹介状を貰って、のこのこ出掛けて行きました。殊に祇園祭には京都中の家々が競うて秘蔵の屏風、絵巻や掛軸などを、陳列しますからこの機会を逃さず、写生帖を持って美しく着飾って歩いている人達の間を小走りに通りぬけて、次から次へ写してゆきました。塾生の間に松園の写生帖と言って評判が立ったのは、こ…

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