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愛
あい |
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作品ID | 4996 |
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著者 | 岡本 かの子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成10 岡本かの子」 国書刊行会 1992(平成4)年1月23日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 湯地光弘 |
公開 / 更新 | 2004-05-12 / 2016-01-16 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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その人にまた逢ふまでは、とても重苦しくて気骨の折れる人、もう滅多には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼ねて頂きます。人間の寿命に相応はしい、嫁入り、子育て、老先の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔に糸はたやすく通ります。畳ざはりが素足の裏にさら/\と気持よく触れます。黄菊などを買つて来て花器に活けます。
その人にまた逢ふときには、何だか予感といふやうなものがございます。ふと、たゞこれだけの月日、たゞこれだけの自分ではといふやうな不満が覚えられて莫迦々々しい気持になりかけます。けれども思へばその気持もまた莫迦らしく、かうして互ひ違ひに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちやうど闇の夜空のネオンでせうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せはしないことです。するうち屹度その人に逢ふ機会が出て来るのでございます。
出がけのときは、やれ/\、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢つて見る眼には思ひの外、あつさりして白いものゝ感じの人でございます。たゞそれに濡れ濡れした淡い青味の感じが梨の花片のやうに色をさしてるのが私にはきつと邪魔になるのでございませう。
その人は体格のよい身体をしやんと立てゝ椅子に腰をかけ、右膝を折り曲げてゐます、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でてゐます。普通には殆ど聞えません。私は母から届けるやう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼して受取つて傍の机の上に置きます。そして手で指図して私をちやうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言ひません。細眼にした間から穏かな瞳をしづかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
その人の中には確に自分も融け込まねばならぬ川が流れてゐる。それをだん/\迫つて感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で慥へて、その表面にヱナメルを塗り、指で弾くとぱか/\と味気ない音のする皮膚で以て急に鎧はれ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまはりを探し歩くやうです。苦しく切ない稲妻がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところ/″\皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒が立ちます。戸惑つた私の魂はとき/″\その人の唇とか額とかに向つても打ち当つて行くやうです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉のやうに私の魂は滑り落ちてはにじむやうな声で鳴くやうです。
私は苦しみに堪へ兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で咏きます。けれどもその人は相変らず身体をしやんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまゝ殆ど音の聞えぬ楽器を奏でてゐ…