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生と歌
せいとうた
作品ID50230
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
初出「スルヤ」1928(昭和3)年10月21日号
入力者村松洋一
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-06-14 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 古へにあつて、人が先づ最初に表現したかつたものは自分自身の叫びであつたに相違ない。その叫びの動機が野山から来ようと隣人から来ようと、其の他意識されないものから来ようと、一たびそれが自分自身の中で起つた時に、切実であつたに違ひない。蓋し、その時に人は、「あゝ!」と呼ぶにとゞまつたことであらう。
 然るに、「あゝ!」と表現するかはりに「あゝ!」と呼ばしめた当の対象を記録しようとしたと想はれる。恐らく、これが叙事芸術の抒情芸術に先立つて発達した所以である。仮りに抒情芸術が先だつたといふ歴史上の論証があがつたとしても、近代に至るまで、抒情芸術と称ばれてゐるものゝすべては叙事による抒情、つまり抒情慾が比較的叙事慾よりも強かつたといふに過ぎない。
 然るにかゝる態度によつて表現がなさるゝ場合、表現物はそれの作される過程の中に、根本的に無理を持つと考へられる。何となれば、「あゝ!」なる叫びと、さう叫ばしめた当の対象とは、直ちに一致してゐると甚だ言ひ難いからである。「見ることを見ること」が不可能な限り、自己の叫びの当の対象を、これと指示することは出来ない。たゞそれが可能に見えるのは、かの記憶、或は経験によつてゞある。
 かくて、表現は、経験によつて、叫びの当の対象と見ゆるものを、より叫びに似るやうに描いたのである。かゝる時生活は表現(芸術)と別れ勝ちになるのだつた。言換れば叫びは無論生活で、その生活に近似せしめる習練――技の習得が芸術となるのだつた。そして芸術史上の折々に於て、殆んど技巧ばかりが芸術の全部かの如き有様を呈した。その間にあつて、たゞ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺したのである。音楽に於けるその著しい例がベートーベンである。正にドビュッシイが言ふやうに、ベートーベンはデスクリプションした。然るに彼の叫びの強烈さがデスクリプションを表現的にしたのだ。
「見ることを見ること」が不可能な限り、自分の叫びの当の対象をこれだと指示することが出来ない時、さしあたつて表現を可能にするものが、かの夢想的過程にあると見られる。トンポエムが作られた所以である。
 然るに夢想的過程なるものは、表出されたとして人生的位置を、即ち meaning を持たない、つまりソナタにならないのだ。トンポエムは必竟表象の羅列である。その羅列が如何に万全を期してゐる際にもなほ、心的快感を喚起するまでゞある。尤も、純粋にエステティクに言つて、デスクリプションよりも進んだものとは言へる。
 然るに、事実歌ふ場合に、人は全然トンポエムにもなれない、又全然デスクリプションにもなれない。この時イージーゴーイングな方面で一番好都合なのは、言つてみればその歌の動機を説明しては、トンポエムすることなのである。かゝる時テーマ楽曲が存在した。
 此処に芸術は一頓挫した。やがて近代の諸主義が生…

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