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金沢の思ひ出
かなざわのおもいで |
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作品ID | 50242 |
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著者 | 中原 中也 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店 2003(平成15)年11月25日 |
初出 | 「隼」1936(昭和11)年10月号 |
入力者 | 村松洋一 |
校正者 | なか |
公開 / 更新 | 2010-12-28 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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私が金沢にゐたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでゐたのは野田寺町の照月寺(字は違つてゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きい松の樹のある家であつた。その松の樹には、今は亡き弟と或時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は大変よく拡がつてゐたが、丈は高くない松だつた。昭和七年の夏金沢を訪れた時、その松が見たかつたが、今は見知らぬ人が借りてゐる家の庭に這入つてゆくわけにも行かなかつたが、家は前面から見た限り、昔のまゝであつた。隣りはタカヂアスターゼの兄さんか弟の家で、子供が八人くらゐゐて、ひどく賑かだつた。
金沢に着いた夜は寒かつた。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇つたことを夢のやうに覚えてゐる。翌日は父と母と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残つてゐる。
十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ越した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。夕方弟と二人で近所の子供が集つて遊んでゐる寺の庭に行つた。却々みんな近づかなかつたが、そのうち一人が、「名前はなんだ」と訊いた。僕は自分の中也といふ名前がひどくいやだつたものだから、「一郎」と小さな声で躊躇の揚句答へた。それを「イチオー」と訊ねた方では聞き違へて、「イチオーだ」とみなの者に告げ知らせた。するとみんなが急に打解けて、「イチオー遊ばう」と近寄つて来るのであつた。由来金沢にゐるあひだぢう、僕の呼名は「イチオー」であつた。
朝が来るたびに、隣りのタカヂアスターゼの下から三番目の子供が、「イチオー………コイマー」と何度も/\呼ぶのであつた。雪の朝は呼び乍ら、両手を口にあてゝゐた。呼ぶことゝ手を温ためることゝ、一挙両得といふわけである。
冬には、羽織を脱いでそれを折りたゝんで「兜」にして冠る遊びがあつた。その兜の作り方が三通りぐらゐあつた。去年の冬それを作つてみようとしたがその何の作り方も覚えてはゐなかつた。
寺ばかりといつてもいゝやうな町に住んでゐたので、葬式は実に沢山見た。葬式のあるたんびに子供達は葬式をやつてゐる寺に名刺を持つて行つて菓子を貰ふのであつた。僕はそれが羨しくて、母に名刺を呉れといふのであつたが「あれはお葬式のお供に行く人の子供だけが貰へるのです」つまり名刺を持つて行つたからとて菓子が貰へるわけはないといふのであつた。それもさうかと思つたが、それにしても葬式のあるたんびにみんなは名刺を持つて出掛けては菓子を持つて帰つてゐた。今以てそれは不思議といへば、一度町内の子供が全部揃つて、忠臣蔵の真似をして練り歩いたことがある。長い列であつた。その先頭ではホラ貝を吹いてゐた。子供達ばかりでやつたことゝしては統制があり過ぎた。あれは親達も手を貸したのであらうか? それともあゝした習慣が金沢に…