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蜻蛉
とんぼ
副題――飜弄さる
――ほんろうさる
著者中原 中也
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者shiro
公開 / 更新2019-04-29 / 2019-03-29
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 会社の帰りに社長の宅を訪問した竹山は何時もになく遅く帰つて来た。
 玄関先に夫らしい足音がすると、先刻から火鉢に凭つて時計ばかりみてゐた妻君は、忙しげに立ち上つて玄関に行つた。「まあね……」と彼女は三和土の上で靴を脱いでる夫の肩に手を置いて声だけを難儀らしくして云つた。――我国の女がまことに無表情に出来てゐることを知つてゐる者のその誰でもが今彼女の夫に対してしたことは、まあ女優か何かにしか思へなかつたのである。而もその夫といふのは、アメリカイズムの流行中心である映画会社にゐるにも関はらず、珍しくも太い横幅の長い口鬚をつけて、ゐて、女に甘えられるのが嫌だといふのではないが、そんな新式な甘え方を、調子よく受け取れるといふ格恰の男ではなかつた。
「まああたしまだ、仕度なんてしてやあしないわ、それに今晩はあれですもの……夜間(撮映)……ねえ。」彼女は語尾を揚げると共に男の顔を掬ひ上げるやうにしてみた。それからも――部屋の方へ上つて来る夫の後を追つかけながらやつぱり今のやうなことを自分自身聞いて貰はなくとも好いつてな風に繰返してゐた。
「あゝ、いや夜間のことはチヤンと承知だつたから、俺は途中でランチで済ませて来たんだ。」
 案外に淡泊と返事をしたが、これが彼の平生のこんな場合の返事振ではない、額口に皺を寄せて火鉢の縁か何かをチヨンと指で弾いてそれから返事をするのが彼の平生のこんな場合の返事振なのである。
「さう、道理でお腹の出来てる顔付だわね。」
 妻君も亦快よく唯それだけ云つた。
 二人は顔を見合せた。別に笑顔にもならなかつたが互に極めて平明な顔をみることが出来た。「かういふ風であれば何事も好いんだな」といふ、解決に満ちた平明な顔が。夫が仰向いて長火鉢の上の柱時計をみながら飛び出した喉豆に掛けた声で「七時かあ」と云つた。その後また妻君が黙つて時計を見上げた。
「社長は別に悪意を持つてるわけぢやないんだ。」
 それを聞いた妻君は初めて笑顔を作つても好い機会を持つたわけであつた。
 夫といふのも妻君と同し映画会社の、俳優監督係なる役にある男だつた。監督係なるものが、如何に俳優に嫌はれてゐるかといふことはそれ程説明の必要もあるまい。而して人気商売の、殊には此のプロパガンダの時代に於て、彼等が悪口の種にならぬ限りに於て自己独特の奇態を流行させようなどゝいふ野望を常に抱いてゐるといふこともよく分つてゐよう。従つて彼等の間では彼等が世間に向つて抱くその野望からの当然の産物として出て来なければならなかつたのは、仲間同志に於ては、その仲間の誰でもを褒めたとも譏つたとも理由の分らない噂――まあまあ噂――さうつまり噂なんだ、それを作り出さんことに閑暇がない。その噂に依ると、二三日前から――さう、だから彼等の噂に一日と続くものはあんまりない筈である――竹山を辞職させようといふ社長の考へ…

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