えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

分らないもの
わからないもの
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店
2003(平成15)年11月25日
入力者村松洋一
校正者shiro
公開 / 更新2018-02-04 / 2018-04-25
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応 ▲
旧Flash版で読む

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

amazon.co.jp

本文より



「福岡から、お客様がみえました」――さういふ下女の取次ぎの言葉を聞いた時から、彼は脅えてゐなくちやならなかつた。
 福岡の客つて、それは彼の内の親類端だつたんだが、非常なブルヂョアであるのだ。そしてその客である奥さんは、彼をよく知つてゐながら彼の父とも母とも一面識さへなかつたのだ。勿論彼の家に来るのも初めてだつた。で、それだけでも何だか、彼は客として来る者に対する責任を感じてゐた。だがそれで彼は脅えちやあゐない。その奥さんなるものの姪と彼とが恋仲であることを奥さんに知られてゐる彼だからなのである。
 一寸挨拶を済ますと、彼は直ぐ引つ込んだ。
「此の頃は、よく勉強してゐますか」
 頭の低い人間だけれど、やつぱりブルヂョアなのだ、見下ろすやうに奥さんは彼に言つた。その一言がヤケに引つ込んでからも彼の耳に残つてゐて、癪に障つてならなかつた。
 彼は此の春学校の落第をしたのだ。
 奥さんが別嬪なのに引き換へて、自分の母親が衰へ顔であることと、如何にかかうにか生活の出来るといふ程度の自分の家を見られることは、とても堪らないことであつた。
 八月のことで、外はカンカン日が照つてゐた、そして彼の家は風の入りが好くなかつた。奥さんと、も一人の奥さんの親族の奥さんとは、扇を使ひながら、「扇風器もないのか……」つて顔をしてゐた。
 彼はその日、東京に行かなきやならなかつた。落第や其の他の事情で土地の学校を出て他所に転校を余儀なくされた彼は、わざわざ、もう暑中休暇も終るといへば、また立つて行くのだ。東京の友人に持つて行く土産を買ひに、彼が出掛けようとしてゐたところに、母が来て言つた。
「腰が重さうだが、今晩泊ると言ひなさらなきや好いが……。あれたちは内に用事があるわけぢやなし、此方が考へる程……」
「いつたい何の用で来たの」
 彼は分り切つてるのに、母をねぎらひたい気持から訊ねてみた。
「今度お父さんがあそこの養子さんにお嫁さんの心配をするんでそのことに就いて一寸……。あれたちは立派な所に、此の頃だつたら革布団位に寝なさるんだらうから……。あんたがこの前行つた時でも毛布団だつたとかつて言つてたあね」
 母は随分気懸りらしかつた。
 表座敷からは無頓着な父の声がしてゐた。彼は父が客達の嘲笑にも気付かずに話してゐることが可愛想にさへ思へた。
「でも福岡市でも竹原といへば知らない人もないつて言つて好い位な家なんですから、余りお粗末にやれば……」
 それは奥さんに従いて来た奥さんの声だつた。
 母はあきらめたやうに、フト表座敷の方へ歩んだ。母の頭から、――それでなくても少い髪だのに、梳が落ちかけててる、向ふに行く後姿をみ送る時、彼は梳のことを注告しようかとも思つたが、それさへ情なくつて出来なかつた。
 嫌々ながら彼は土産をとゝのへに出た。
 いよいよ出掛けに靴を穿いてゐる時、祖母が…

えあ草紙で読む

find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2018 Sato Kazuhiko