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河上に呈する詩論
かわかみにていするしろん |
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作品ID | 50256 |
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著者 | 中原 中也 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」 角川書店 2003(平成15)年11月25日 |
入力者 | 村松洋一 |
校正者 | なか |
公開 / 更新 | 2010-11-25 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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子供の時に、深く感じてゐたもの、――それを現はさうとして、あまりに散文的になるのを悲しむでゐたものが、今日、歌となつて実現する。
元来、言葉は説明するためのものなのを、それをそのまゝうたふに用うるといふことは、非常な困難であつて、その間の理論づけは可能でない。
大抵の詩人は、物語にゆくか感覚に堕する。
短歌が、ただ擦過するだけの謂はば哀感しか持たないのは、それを作す人にハーモニーがないからだ。彼は空間的、人事的である。短歌詩人は、せいぜい汎神論にまでしか行き得ない。人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡の情が彼にはあり得ぬ。彼を、私は今、「自然詩人」と呼ぶ。
真の「人間詩人」、(ベルレーヌの如き)と、自然詩人の間には無限の段階がある。それを私は「多くの詩人」と呼ばう。
「多くの詩人」が其他の二種の詩人と異るのは、彼等にはディストリビュションが、詩の中枢をなすといふことである。
彼等は、認識能力或は意識によつて、己が受働する感興を翻訳する。この時「自然詩人」は感興の対象なる事象物象をセンチメンタルに、あまりにも生理作用で書き付ける。又此の時、「人間詩人」は、――否、彼は、常に概念を俟たざる自覚の裡に呼吸せる「彼自身」なのである。
――――――――――
五年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であつた。――暫く天を忘れてゐた、といふ気がする。然し、今日古ぼけた軒廂が退く。
どうかよく、僕の詩を鑑賞してみて呉れたまへ。そこには、穏かな味と、やさしいリリシスムがあるだらう。そこに利害に汚されなかつた、自由を知つてる魂があるだらう。
そして、僕は云ふことが出来る。
芸術とは、自然の模倣ではない、神の模倣である!
(なんとなら、神は理論を持つてはしなかつたからである。而も猶、動物でもなかつたからである。)
千九百二十九年六月二十七日
Glorieux 中也