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浮舟
うきふね
作品ID50541
著者泉 鏡花
文字遣い新字新仮名
底本 「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」 ちくま文庫、筑摩書房
2009(平成21)年7月10日
初出「新小説」1916(大正5)年4月号
入力者門田裕志
校正者砂場清隆
公開 / 更新2018-10-13 / 2018-09-28
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「浪花江の片葉の蘆の結ぼれかかり――よいやさ。」
 と蹌踉として、
「これわいな。……いや、どっこいしょ。」
 脱いで提げたる道中笠、一寸左手に持換えて、紺の風呂敷、桐油包、振分けの荷を両方、蝙蝠の憑物めかいて、振落しそうに掛けた肩を、自棄に前に突いて最一つ蹌踉ける。
「……解けてほぐれて逢う事もか。何を言やがる。……此方あ可い加減に溶けそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」
 さっと沈めた浪の音。磯馴松は一樹、一本、薄い枝に、濃い梢に、一ツずつ、翠、淡紅色、絵のような、旅館、別荘の窓灯を掛連ね、松露が恋に身を焦す、紅提灯ちらほらと、家と家との間を透く、白砂に影を落して、日暮の打水のまだ乾かぬ茶屋の葭簀も青薄、婦の姿もほのめいて、穂に出て招く風情あり。此処は二見の浦づたい。
 真夏の夜の暗闇である。この四五日、引続く暑さと云うは、日中は硝子を焼くが如く、嚇と晴れて照着ける、が、夕凪とともに曇よりと、水も空も疲れたように、ぐったりと雲がだらけて、煤色の飴の如く粘々と掻曇って、日が暮れると墨を流し、海の波は漆を畝らす。これでいて今夜も降るまい。癖に成って、一雫の風を誘う潮の香もないのであった。
 男は草鞋穿、脚絆の両脚、しゃんとして、恰も一本の杭の如く、松を仰いで、立停って、……眦を返して波を視た。
「ああ、唄じゃねえが、一雨欲しいぜ……」
 俄然として額を叩いて、
「慌てまい。六ちゃん、いや、ちゃんと云う柄じゃねえ。六公、六でなし、六印、月六斎でいやあがら。はははは。」
 肩を刻んで苦笑いして、またふらふらと砂を踏み、
「野宿に雨は禁物でえ。」
 その時躓く。……
「これわいな! 慌てまいとはこの事だ。はあ、松の根ッ子か。この、何でもせい。」
 岸辺の茶屋の、それならぬ、渚の松の舫船。――六蔵は投遣りに振った笠を手許に引いて、屈腰に前を透かすと、つい目の前に船首が見える。
 船は、櫂もなく艪もなしに、浜松の幹に繋いで、一棟、三階立は淡路屋と云う宏壮な大旅館、一軒は当国松坂の富豪、池川の別荘、清洒なる二階造、二見の浦の海に面した裏木戸の両の間、表通りへ抜路の浜口に、波打際に引上げてあった。
 夫女巌へ行くものの、通りがかりの街道から、この模様を視めたら、それも名所の数には洩れまい。舷に鯔は飛ばないでも、舳に蒼い潮の鱗。船は波に、海に浮べたかと思われる。……が藍を流した池のような浦の波は、風の時も、渚に近いこの船底を洗いはせぬ。戯にともづなの舫を解いて、木馬のかわりにぐらぐらと動かしても、縦横に揺れこそすれ、洲走りに砂を辷って、水に攫われるような憂はない。
 気の軽い、のん気な船は、件の別荘の、世に隔てを置かぬ、ただ夕顔の杖ばかり、四ツ目に結った竹垣の一重を隔てた。濡縁越の座敷から聞え来る三味線の節の小唄の、二葉三葉、松の葉…

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