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越年
えつねん
作品ID50617
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集5」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年8月24日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-03-23 / 2014-09-21
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 年末のボーナスを受取って加奈江が社から帰ろうとしたときであった。気分の弾んだ男の社員達がいつもより騒々しくビルディングの四階にある社から駆け降りて行った後、加奈江は同僚の女事務員二人と服を着かえて廊下に出た。すると廊下に男の社員が一人だけ残ってぶらぶらしているのがこの際妙に不審に思えた。しかも加奈江が二、三歩階段に近づいたとき、その社員は加奈江の前に駆けて来て、いきなり彼女の左の頬に平手打ちを食わした。
 あっ! 加奈江は仰反ったまま右へよろめいた。同僚の明子も磯子も余り咄嗟の出来事に眼をむいて、その光景をまざまざ見詰めているに過ぎなかった。瞬間、男は外套の裾を女達の前に飜して階段を駆け降りて行った。
「堂島さん、一寸待ちなさい」
 明子はその男の名を思い出して上から叫んだ。男の女に対する乱暴にも程があるという憤りと、こんな事件を何とかしなければならないというあせった気持から、明子と磯子はちらっと加奈江の方の様子を不安そうに窺って加奈江が倒れもせずに打たれた頬をおさえて固くなっているのを見届けてから、急いで堂島の後を追って階段を駆け降りた。
 しかし堂島は既に遥か下の一階の手すりのところを滑るように降りて行くのを見ては彼女らは追つけそうもないので「無茶だ、無茶だ」と興奮して罵りながら、加奈江のところへ戻って来た。
「行ってしまったんですか。いいわ、明日来たら課長さんにも立会って貰って、……それこそ許しはしないから」
 加奈江は心もち赤く腫れ上った左の頬を涙で光らしながら恨めしそうに唇をぴくぴく痙攣させて呟いた。
「それがいい、あんた何も堂島さんにこんな目にあうわけないでしょう」
 磯子が、そう訊いたとき、磯子自身ですら悪いことを訊いたものだと思うほど加奈江も明子も不快なお互いを探り合うような顔付きで眼を光らした。間もなく加奈江は磯子を睨んで
「無論ありませんわ。ただ先週、課長さんが男の社員とあまり要らぬ口を利くなっておっしゃったでしょう。だからあの人の言葉に返事しなかっただけよ」と言った。
「あら、そう。なら、うんとやっつけてやりなさいよ。私も応援に立つわ」
 磯子は自分のまずい言い方を今後の態度で補うとでもいうように力んでみせた。
「課長がいま社に残っているといいんだがなあ、昼過ぎに帰っちまったわねえ」
 明子は現在加奈江の腫れた左の頬を一目、課長に見せて置きたかった。
「じゃ、明日のことにして、今日は帰りましょう。私少し廻り道だけれど加奈江さんの方の電車で一緒に行きますわ」
 明子がそういってくれるので、加奈江は青山に家のある明子に麻布の方へ廻って貰った。しかし撲られた左半面は一時痺れたようになっていたが、電車に乗ると偏頭痛にかわり、その方の眼から頻りに涙がこぼれるので加奈江は顔も上げられず、明子とも口が利けなかった。

 翌朝、加奈江が朝飯を食べてい…

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