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扉の彼方へ
とびらのかなたへ
作品ID50623
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集4」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日
初出「新女苑」1938(昭和13)年2月号
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-04-05 / 2014-09-21
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 結婚式の夜、茶の間で良人は私が堅くなってやっと焙れてあげた番茶をおいしそうに一口飲んでから、茶碗を膝に置いて云いました。
「これから、あなたとは永らく一つ家の棟の下に住んで貰わなければならん。遠慮はなるべく早く切り上げるようになさるがいい」
 私は良人にこう云われると、持ち前の子供らしさが出てつい小さな欠伸を一つ出して仕舞いました。良人はそれを見るとやや嗄れたような中年男の声に、いたわりの甘味をふくめて、「ははあ」と軽く笑って云うのでした。
「一日中人中で式や挨拶やで嘸窮屈疲れがしたでしょう。今夜はゆっくり寝みなさるがいい。廻り椽の角の日本座敷、あすこはこの先ともずっとあなたの部屋になるところだから、どうにでも気儘にして寛いで下さい」
 私はどぎまぎして良人のいうことの意味はよく酌み取れませんでしたが、良人の気性を充分に知っている私は、夫のそのいたわりを全部善意にうけ取ることが出来ました。私は小学生が復習の日課を許して貰ったように、お叩頭をして、つい、
「有難うございます」と云って仕舞いました。
 そして「おやすみなさいまし」と元気よく云って立ち上り、良人が呼んで呉れた老女に導かれて部屋へ退こうとしました。その時良人はちょっと手を上げて私を呼び止め、微笑しながら云いました。
「あなたを大切にして上げる気持ち、判ってるでしょうね」
 私は、さきにも云いました通り、夫の言葉を全部善意に解して、何を誤解などしようかと、その時も何の気も付かずにいましたが、なるほどあとで考えれば、相手に嫌われてるのではないかと、まだ相手は心に打ち解けられないものを持っているのではあるまいかなど、随分疑ってもよい、良人の仕打ちでないことはありませんのです。私がずっと年下の後添いの妻であるだけに、それが一層あってよい筈でした。
 ここでちょっと、私と只今の良人との結婚の事情を説明して、お話しますが、良人はもと私の父に使われていたある種の科学研究所の助手で、父と何か意見の衝突があって、学問は思いとどまり、自分で事業を経営して見たがうまく行かず、一度外国へ立退いて帰ってから一廉の事業企劃家になったのだそうです。良人は四十も過ぎているし、私はやっと二十二の春を迎えた許りですし、誰が見ても順当に運んだ新郎新婦とは受取りますまい。良人が父の助手時代は、私はまったくこどもで、良人の動静については殆ど知りませず、年頃になってから、正月と盆にだけ私の実家へ挨拶に来る紳士があって、それが今の良人であったのですが、ただ普通に義理堅い父の旧弟子の一人と思っていただけです。その時分はもう父はなくなっていましたから、良人は座敷へ上りはするが、母に会ってお土産の品を出し、簡単な世間話や、時候の挨拶位で、帰って行きました。
 たまたま私が居合せると、女中に代ってお茶を運ばせられることぐらいはあり、その時良人は私に向…

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