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大阪まで
おおさかまで
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鏡花全集 巻二十七」 岩波書店
1942(昭和17)年10月20日
初出「新小説 第二十三年第十号」春陽堂、1918(大正7)年10月1日
入力者門田裕志
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-08-05 / 2018-08-28
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 これは喜多八の旅の覺書である――
 今年三月の半ばより、東京市中穩かならず、天然痘流行につき、其方此方から注意をされて、身體髮膚これを父母にうけたり敢て損ひ毀らざるを、と其の父母は扨て在さねども、……生命は惜しし、痘痕は恐し、臆病未練の孝行息子。
 三月のはじめ、御近所のお醫師に參つて、つゝましく、しをらしく、但し餘り見榮のせぬ男の二の腕をあらはにして、神妙に種痘を濟ませ、
「おとなしくなさい、はゝゝ。」と國手に笑はれて、「はい。」と袖をおさへて歸ると、其の晩あたりから、此の何年にもつひぞない、妙な、不思議な心持に成る。――たとへば、擽つたいやうな、痒いやうな、熱いやうな、寒いやうな、嬉しいやうな、悲しいやうな、心細いやうな、寂しいやうな、もの懷しくて、果敢なくて、たよりのない、誰かに逢ひたいやうな、焦つたい、苛々しながら、たわいのない、恰も盆とお正月と祭禮を、もう幾つ寢ると、と前に控へて、そして小遣錢のない處へ、ボーンと夕暮の鐘を聞くやうで、何とも以て遣瀬がない。
 勉強は出來ず、稼業の仕事は捗取らず、持餘した身體を春寒の炬燵へ投り込んで、引被いでぞ居たりけるが、時々掛蒲團の襟から顏を出して、あゝ、うゝ、と歎息して、ふう、と氣味惡く鼻の鳴るのが、三井寺へ行かうでない、金子が欲しいと聞える。……
 綴蓋の女房が狹い臺所で、總菜の菠薐草を揃へながら、
「また鼻が鳴りますね……澤山然うなさい、中屋の小僧に遣つ了ふから……」
「眞平御免。」
 と蒲團をすつぽり、炬燵櫓の脚を爪尖で抓つて居て、庖丁の音の聞える時、徐々と又頭を出し、一つ寢返つて腹這ひで、
「何か甘いもの。」
「拳固……抓り餅、……赤いお團子。……それが可厭なら蝦蛄の天麩羅。」と、一ツづゝ句切つて憎體らしく節をつける。
「御免々々。」と又潛る。
 其のまゝ、うと/\して居ると、種痘の爲す業とて、如何にとも防ぎかねて、つい、何時の間にか鼻が鳴る。
 女房は鐵瓶の下を見かた/″\、次の間の長火鉢の前へ出張に及んで、
「お前さん、お正月から唄に謠つて居るんぢやありませんか。――一層一思ひに大阪へ行つて、矢太さんや、源太さんに逢つて、我儘を言つていらつしやいな。」
 と、先方が男だから可恐く氣前が好い。
「だがね……」
 工面の惡い事は、女房も一ツ世帶でお互である。
 二日も三日も同じやうな御惱氣の續いた處、三月十日、午後からしよぼ/\と雨になつて、薄暗い炬燵の周圍へ、別して邪氣の漾ふ中で、女房は箪笥の抽斗をがた/\と開けたり、葛籠の蓋を取つたり、着換の綻を檢べたり、……洗つた足袋を裏返したり、女中を買ものに出したり、何か小氣轉に立[#挿絵]つて居たと思ふと、晩酌に乾もので一合つけた時、甚だ其の見事でない、箱根土産の、更紗の小さな信玄袋を座蒲團の傍へ持出して、トンと置いて、
「楊枝、齒磨……半紙。」
 …

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