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石川五右衛門の生立
いしかわごえもんのおいたち
作品ID51226
著者上司 小剣
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鱧の皮」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年11月5日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-05 / 2014-09-16
長さの目安約 65 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 文吾(五右衞門の幼名)は、唯一人畦の小徑を急いでゐた。山國の秋の風は、冬のやうに冷たくて、崖の下の水車に通ふ筧には、槍の身のやうな氷柱が出來さうであつた。布子一枚で其の冷たい風に慄へもしない文吾は、實つた稻がお辭儀してゐる田圃の間を、白い煙の立ち騰る隣り村へと行くのである。
 隣り村には、光明寺といふのがあつて、其處の老僧が近村の子供たちに手習ひをさして實語教なんぞを讀むことを教へてゐる。文吾も今年の春から其の寺へ通ひ始めたのであるが、朝寢坊の癖があるので、いつも遲れ勝ちで、朋輩が雙紙を半分も習ひ終つた頃、文吾の小まちやくれた姿が庫裡の入口に現はれるときまつてしまつた。
「文吾はん、早う起きいしいや。」と、母は朝の支度が出來た時、文吾の枕邊に立つて、優しく呼び起すのであるが、文吾は微かに眼を見開いて、母の世帶疲れのした顏を見守つたばかり、また眼を閉ぢて、スヤ/\と眠つてしまふ。こんなに眠がるものをと、母は足音を忍ばせつゝ、勝手の方へ立つて、井戸端に絞り上げてある洗濯物を竿に懸けてから、御飯は文吾が起きてからと、お膳を片寄せて置いて、板の間につくねてある賃仕事の縫ひ物にかゝらうとしたが、幾ら何んでもあんまり遲い。もうお寺通ひの子は殘らず行つてしまつて、表には子守唄が、のんびりと聞えてゐる。文吾は狸寢入りをしながら、母のすることを一つ/\手に取るやうに、座敷の寢床の中で知つてゐるのである。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
 子守唄は文吾の耳へもハツキリと聞えて來る。こんな、眠りを誘ふやうな唄をうたはれても、文吾は更に眠くないのである。もう起きてやらうかと、小さな身體をもぐ/\さしてゐる枕頭へ、母の足音が、遠くから響くやうであつた。また起しに來たのだなアと思ふと、文吾は起きるのが厭になつた。さうして、ヂツと眼を瞑つて熟睡を裝うてゐた。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
 さらに近く子守唄が、窓の外で聞えた。母の足音は、文吾の枕邊まで來て、はたと止つたが、今度は「文吾はん、起きいしいや。」といふ聲も聞えないて、たゞ側に近く人が立つてゐるといふ氣色を、文吾の狸寢入りの魂魄に感じさせるだけであつた。
 ぽつり。………
 雨の日に、この荒れた家の天井から落ちるやうな雫が、文吾の頬に垂れかゝつて、冷やりとした心持ちは、文吾の全身をビク/\と慄へさせた。文吾はまた細く眼を見開かうかと思つたが、ヂツとこらへて、頬にかゝつた雫の、全身に滲み渡るのを感じつゝ、何か劇しい藥でも付けられて肉を爛らし、骨を燒く苦みが、今にもやつて來るやうに思はれてならなかつた。
 頬にかゝつた雫が、母の涙であることを、文吾は直ぐ悟つたのであるが、母の涙には、恐ろしい毒でも混つてゐるやうに思はるゝことがあつた。愛兒の枕頭…

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