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仏教人生読本
ぶっきょうじんせいとくほん
作品ID52342
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「仏教人生読本」 中公文庫、中央公論新社
2001(平成13)年7月25日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-12-31 / 2014-09-16
長さの目安約 254 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

この書を世に贈るについての言葉


 二十年近くも、私が心に感じ身に行って来た経験をふりかえり、また、批判してみたことを偽りなく書き集めたのが、この書物となりました。私という一人の人間が、真に感じたり想ったりしたことは、同じ人間である世のみな様に語って真実同感して頂けることと信じます。また私の信仰する仏教は、飽くまでも人間に対して親切で怜悧でありますから、仏教の信仰を通して語る私の言葉は、殆んど絶対な理解や同情をみな様にお贈りすることが出来、みな様の「人生解決」のお役に立つことをかたく信じて疑いません。

  昭和九年十一月
岡本かの子
[#改ページ]

第一課 悲観と楽観



 悲観も突き詰めて行って、この上悲観のしようもなくなると楽観に代ります。今まで泣き沈んでいた女が気が狂ったのでなく静かに笑い出すときがそれであります。さればとて捨鉢の笑いでもありません。訊いてみると、「ただ何となく」といいます。私はその心境をしみじみ尊いものに思います。
 心の底は弾機仕掛けになっているのでありましょうか。どの感情の道を辿って行っても真面目に突き詰めて行けばきっとその弾機に行き当るのでしょうか、必ず楽観に弾ね上って来ます。
「おあん物語」という古書があります。家康の軍勢に大垣城が取囲まれ、落城する砌の実状を、そのとき城中にあった、おあんという女の想い出話の記録であります。
 落城も程近い城中にあって当時若い腰元のおあんはその朋輩とともに、将卒が取って来たたくさんの敵の首の歯におはぐろを塗っているのであります。
 将卒たちは自分が取って来た敵の首が白歯のままであるとそれは敵軍の士卒の首であることが判るので、おはぐろを塗って貰って将士の首に見せかけ主人達の感賞に与ろうとするのであります。その役を、危険な混雑な落城も程近い城中にあって心弱い若い女のおあんたちは取乱した様子もなく無雑作にやっているのでありました。悲観の極の楽観と同様、せっぱつまった時の落ちつきです。
憂きことのなほこの上に積れかし
  限りある身の力試めさん
 これは尼子十勇士の一人の山中鹿之助が主家の再興を図りましたけれども、ほとんど絶望であることが発見されてのち詠み出でた歌であります。ちょっと見ると破れかぶれの歌にも見えますけれどもそうではありません。悲観の極は例の弾機仕掛けに弾ね上げられ、人生を見直し出した従容たる態度の歌であります。蕭条たる秋風に鎗を立てて微笑む鹿之助の顔が眼に泛ぶのであります。
「男が話が判ってくるのは一度首の座に直ってからだ」。私の母は、その父の郷士で儒者であった人が、しじゅうこう口癖に言っていたということを、よく幼時の私に話して聞かせました。その郷士は横浜開港などにも関係し、相当、危険な幕を潜った体験を持った人だそうです。
「首の座に直る」ということは悲観の極を一度味わったこと…

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