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静かな歩み
しずかなあゆみ
作品ID52947
著者酒井 嘉七
文字遣い新字旧仮名
底本 「酒井嘉七探偵小説選」 論創社
2008(平成20)年4月30日
入力者酒井 喬
校正者小林繁雄
公開 / 更新2011-04-25 / 2014-09-16
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あすの朝迄に一人殺して下さい。いゝですか。九時に報告に来て下さい。私は今晩ここで徹夜しますから朝までずつとゐます。報酬は先に渡しておきます。」
 と、札束を机の上へ投げる音がする。午後の十時である。八階二十五号室の表に佇んで聞くともなく、かうした会話を耳にした警手の西山は、ぎよッとした。この建物に警手として雇われてから、まだ一週間にもならない彼には、この二十五号室の事務所が何を商売にするのか、それすら知らない。表の名札には、「オベリスク社」と彼には何のことか分らない片仮名の文字が記されてゐるに過ぎない。殺人を依頼された人物が出て来る気配がする。警手の西山は知らぬ顔をして、リノリュームの通路を静かに歩き初めた。部屋部屋に異常はないか、と聞き耳を立てながら、静かに歩を移して行く。二十五号室から出て来た殺人の依頼を受けた男が、コツコツと靴音をさせながら後から近ずいて来る。
「御苦労さんです。」
 通り過ぎる時に、かう警手に声をかけた。
「はあ。」
 西山は前をむいたまま、軽く頭を下げて、遠ざかつて行く彼の後姿を見送つた。都会とは恐ろしい処だ。自分は田舎の国民学校へ通つてゐる頃から非常に残忍な性質を持つてゐて、喧嘩をしても相手を倒すだけでは満足せず、足で踏みにじつた。また、馬乗りになると、血を吹き出すまで、鼻柱を撲りつけた。目に指を突き込んで、失明させたこともある。先生にも校長にも突つ掛つて行つた。そして、もう五年生の頃からは、狂暴性あり残忍性を帯びた特異の児童として、総ての人々に敬遠されてゐた。国民学校を出ると、両親に従つて百姓を初めた。成年に達した。しかし、部落の人達は、なるべく自分に近かずかなかつた。狂暴性と残忍性の両翼をもつた悪魔が自分の体の中で、何時でも飛び出せる用意をして、待つてゐることを、彼等は、よく知つてゐたのである。この悪魔は、まだ自分の身体の中にゐる。自分は百姓をしながら、かう考へた。働くのは嫌だ。毎日ぶらぶらしてゐたい。それには誰かの話に聞いた都会の大きな建物の警手がいゝ。六尺近い頑丈な君にはもつて来いだ。それに軍隊生活の経験があるんだから文句はない。
「さうだ。そんな仕事が自分に適してゐる。」
 膝を打つて自分は立ち上つた。泥にまみれた股引と襦袢を脱ぎ捨てた。そして、今、金ボタンの付いたこんな立派な制服を着てゐる。しかし、さうした現在でも、悪魔は昔のままの姿で自分の身体の中に翼をたゝんでじつと踞んでゐる。この悪魔は、いつか翼をぱツと拡げて、飛び出して来る。そして、人を殺すぐらひのことは訳もなくやつてのける。しかし、『あすの朝までに一人殺して下さい。』『承知しました。』と、あの人達のやうに、そう容易に、事務的に飛んで出て来るかどうか。かう考へると全く都会の人は恐ろしい。あの人達を見ろ。見た目にも立派な紳士ではないか。頭の先から足の先まで…

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