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東光院
とうこういん |
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作品ID | 53488 |
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著者 | 上司 小剣 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「明治文學全集 72 水野葉舟 中村星湖 三島霜川 上司小劍集」 筑摩書房 1969(昭和44)年5月25日 |
初出 | 「文章世界」1914(大正3)年1月 |
入力者 | いとうたかし |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2012-02-05 / 2016-01-18 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
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一
東光院の堂塔は、汽動車の窓から、山の半腹に見えてゐた。青い木立の中に黒く光る甍と、白く輝く壁とが、西日を受けて、今にも燃え出すかと思はれるほど、鮮やかな色をしてゐた。
長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布を懸けたやうに白く、こんもりとした繁みの間から透いて見えた。
『東光院て、あれだすやろな。』
お光は、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡い臭ひに顏を顰めて、縞絹のハンケチで鼻を掩ふてゐたが、この時漸く斯う言つて、其の小じんまりとした、ツンと高い鼻を見せた。
小池は窓の外ばかり眺めて、インヂンから飛び散る石油の油煙にも氣がつかぬらしく、唯々乘り合ひの人々に顏を見られまいとしてゐた。
『こないに汚れまんがな。』
口元の稍大きい黒子をビク/\動かして、お光はハンケチで小池の夏インバネスの袖を拂つてやつた。
『耐らないな、歸りには汽車にしやうね。二時間や三時間待つたつて、こんな變なものに乘るよりやいゝや。』
小池は初めて氣がついたらしく、肩から膝の邊へかけて、黒い塵埃の附いてゐるのを、眞白なハンケチでバタ/\やつて、それから對ひ合つてゐるお光の手提袋の上までを拂つた。
『そやよつて、もつと待ちまへうと言ひましたのやがな。あんたが餘まり急きなはるよつて、罰が當りましたのや。』
底を籠にして、上の方は鹽瀬の鼠地に白く蔦模樣の刺繍をした手提げの千代田袋を取り上げて、お光は見るともなく見入りながら、潤ひを含んだ眼をして、濁り言のやうに言つた。
『知つてる人に見られると厭やだからね、この方角へさへ逃げて來れば、大抵大丈夫だからね。……逃げるは早いが勝だ。乘り物の贅澤なんぞ言つてゐられなかつたんだよ。』
斯う言つて小池は、力一杯に窓の硝子戸を押し上げた。
汽動車は氣味のわるい響きを立てつゝ、早稻はもう黄ばんでゐる田圃の中を、十丁程と思はるゝ彼方に長く横はつた優し氣な山の姿に並行して走つてゐた。
『これから先きへ汽動車はまゐりません。先きへお出での方はこの次ぎへ來る汽車にお乘り下さい。』と、車掌が節を附けて唄ふやうに言つたので、小池もお光も同時にハツと頭を上げて車室を見渡すと、自分たち二人の外には、大きな風呂敷包みを背負つた老婆が、腰を曲げてまご/\してゐるだけで、多くの人々は早や改札口をぞろ/\と出て行くのが見えてゐた。
『何處へ行きますのや、……一體。……』と、お光はあたふたと車室を出る小池の後から、小走りに續きながら聲をかけた。
『僕は東京の人だもの、こんな遠方の片田舍の道は知らないからね。……君が案内をするんだよ。』
屋臺店を稍大きくした程の停車場を通り拔けると、小池は始めて落ちついた心持ちになつたらしく、燐寸を擦つてゆツたりと紙卷煙草を吹かした。青い煙がゆら/\として、澄み切つた初秋の空氣の中に消えた。
『私かて、知りまへんがな、……こんなとこ。……』…