えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
![]() りょうりもそうさくである |
|
作品ID | 54991 |
---|---|
著者 | 北大路 魯山人 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「魯山人味道」 中公文庫、中央公論社 1980(昭和55)年4月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2013-07-27 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 3 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
料理屋の料理にせよ、あるいは家庭の料理にせよ、それがうまくできるもできないも、要するに料理をする人の舌次第なのである。
あそこの料理屋の料理よりも、ここのうちの奥さんのお手料理の方がはるかに美味である、と言うようなことも時に聞く話である。この場合、この奥さんの味覚は、他の料理屋の料理人のそれよりも確かに味覚感度が高く、且つ、しっかりしていたということを意味する。
ところで、味覚器官そのものである舌は、人それぞれ一枚ずつしか持ち合わせていない。それゆえ、感度の高い舌を持ち合わせているということは、天幸であり、天爵であり、天恵である。
しかし、天分的に味覚のすぐれた人というのは、そうザラにいるというわけにはいかない。天は地上に、この味覚の人を産みつけるべく、常に甚だケチであるとも言えようか。もちろん、私の狭い経験の範囲から言うのであるが、私の知っている数多の料理人のうちに、この天与の特質を備えている人が、果して幾人あるであろうか。曰く新富ずしの主人、曰く丸梅の女将、曰く誰、曰く誰と言ってみたところで、一度に十人とは数えきれないかも知れない。それよりも却って、その道の人でない人で、料理好きの奥さんとか、女中さんだとか、または案外世間に知られていない食道楽家の間に、立派な舌の持ち主を見受けることがある。
孔子は「人飲食せざるは莫し、能く味を知るもの鮮きなり」と言っているが、確かに、その通りだと思うのである。
よく人の話に、このごろ東京の○○の料理は、さっぱり美味くなくなったとか、京都の○○の料理は、すっかり落ちてしまったとか言うのを聞くのであるが、これは話としては決して行き届いたものではない。否、ずいぶん無理な話である。料理もまた人間に許された一種の個人的な創作である。決してその家だとか、その看板だとか、またはその帳場とかで、勝手にどうともすることの出来る仕事でなければ、また商売でもないのである。いつの間にか、その作者が替ってしまっている以上、その作品の変るのは当然である。
創作は、その人とともに一代をかぎる。東京の○○、京都の○○を始めた人なぞは、いずれもあれだけの名を残したほどの人であるのだから、必ず稀有の天才家であったにちがいない。その上にも、これらの人は、茶道において、確かにその精神を掴むことができて、それをまた具合よく、その料理道の上に移すことが甚だ可能だったのである。そして、この料理道の第一義――味覚への徹底とその整頓――とは、それが性格的に創作である関係から、これが第二者への伝授を決して完全ならしめないのである。
そこで、私は重ねがさね、料理も一種の創作であって、その作者が替れば、その作品も変るということを銘記したいのである。
(昭和六年)